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    映画の詩学(ロシア語新刊)

     1920年代、ロシアの文芸学者や映画の実作者達は映画理論の構築に携わった。彼らの映画理論は、古典的な意味での「詩学」だった。というのは、彼らの関心は主に、映画の構成とその構成原理だったからだ。

     やがて、大半の場合は学界で承認された映画作品の分析が、理論家達の普通の課題になった。映画記号論と物語論(ナラトロジー)の登場以来、映画作品分析のための道具箱は豊かになったが、理論自体は退屈なものになった。

     部分的な「映画の詩学」の再生が、おそらく1980年代以降に起きた(ちょうどその頃、経済的バブルが始まった)。
     この新しい詩学が志向していたのは、映画創作ではなく(なぜならそれは「学術的」課題ではないので)、テクストとしての映画作品の洗練された読解だった。その後、全ての大陸で新自由主義的政策が優勢になり始め、作家映画の人気が衰えると、残念ながら全ては無に帰した。1990年代は、おそらくその転換点だった。
     
     私の準博士(PhD)論文は、この時期に、ロシアで、ロシア語で書かれた。この事実はたぶん、この論文に映画理論の分野におけるある種の歴史的意義を与えただろう。少なくとも私にはそう思われる。

     私はそれを刊行したばかりである。
    ペーパーバックはここで買える(米アマゾン)。
    Polifoniya v narrativnom kino: popytka poetiki kinoiskusstva (Russian Edition)
    by Shusei Nishi 
    Link: http://amzn.com/1499273304

     
    >ちなみにこちらはキンドル版である
    キンドルはまだロシア語をサポートしていないそうで、販売が停止された。下記のリンク先も消えてしまった。
    しかし実際にはロシア語のキンドル本が既に幾つも存在する(公式にはサポートしていないことになっているのに)。
    技術的には何の問題もないことは、既存のロシア語キンドル本が売れていることでも証明されている。
    一体、どういうことなのか、全く不可解である。

    Polifoniya v narrativnom kino (Russian edition): popytka poetiki kinoiskusstva (English Edition)Polifoniya v narrativnom kino (Russian edition): popytka poetiki kinoiskusstva (English Edition)
    (2015/04/24)
    Shusei Nishi

     
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    tag : 映画理論

    モンタージュ理論と映画史の単純でない関係

     映画に限らず、芸術の歴史を考える際には、単純な進歩史観を採用するのは禁物である。また、芸術における進化は、生物進化のように、環境に適応して複雑化・分化していくわけでもない。

     一度発見された技法や様式は、潜在的にいつまでも残り、十年後か百年後か千年後かは分からないが、とにかく誰かが「再発見」して自分の作品に採用した時、「新機軸」として知覚されるのである。勿論、本当に新しい技法や様式を発見する人々もいるが、それはほとんどの場合非常に特殊な才能によるもので、簡単に応用できず、例えばゴッホの絵のように同時代人にとっては無価値で狂気の兆候と受け止められかねないものだ。
     
     映画史における様々な技法やスタイルの登場は、絵画に比べるとその展開がはるかに分かりやすい。それは、映画が常に「経済」や「政治」という二大要因に強く制約されてきたからであり、ゴッホやその他の孤独な画家や詩人達をとらえた荒れ狂うような激しい創造や信仰の情熱に支配されることが、事実上不可能だったからだ。
     
      映画の場合、「後世に認められる」ことが難しかったのは、(インターネットという素晴らしく民主的で自由なプラットフォームが現れた現在はともかく、それ以前の過去およそ100年の間)映画が「映画館」という商業的な施設に閉じ込められてきたからである。1920年代から「映画史」に登場する「実験映画」でさえ、それを公開するための特別な劇場を必要とした。
     
     レフ・クレショフやセルゲイ・エイゼンシュテイン、フセヴォロド・プドフキンの名前に代表される「ソヴィエト・モンタージュ派」が登場した時代には、映画館だけが映画の生存の場所だった。しかも、ソ連のボリシェビキ政権は1920年に映画を国営化した後、映画を「政治」によっても強く制約した。彼らの映画理論(モンタージュ理論)が基本的には非常に理性主義的で合理主義的なのは、経済と政治の極めて「現実主義的な」機構の中でその言説が生まれたからである。
     そのことにはプラスもマイナスもあったが、現代という時代が事実上、19世紀以前の哲学や美学を時代遅れにしてしまった以上、プラスの方が大きい。我々は、たとえ芸術に携わっていても、現実主義的でなければ生き残ることさえできない時代に生きているからである(ジュール・ベルヌは19世紀の60年代、既にそのような時代の到来を予見していた)。
     
     「ソヴィエト・モンタージュ派」は、エイゼンシュテインによってトーキーの到来以降に書かれたものを除くと、1910年代後半から20年代にかけて主要映画製作国(アメリカとヨーロッパ諸国)で達成された表現技法を、「規範化」したものにすぎない。「規範」とは、従うべき約束事である。映画には自然言語のような「文法」はないが、大量生産と大量消費のサイクルに組み込まれた文化産業として成長するにつれて、商業的に通用するのに必要な様々な「規範」が自然発生的に生じてきた。若い映画狂達の中で、旧世代がいなくなって自分達に映画界をリードする役割が与えられた者が、それらの「規範」を「理論」にまとめようと考えたのは、当然のなりゆきだっただろう。ただ、その理論を書物の形にするか、公表するかしないかは、別の問題である。

     創作の理論書を書くには、何からの動機づけが必要である。『詩学』を書いたアリストテレスはおそらく、「どうも最近の悲劇は出来が悪い。ソフォクレスの『オイディプス王』のような傑作が生まれず、ご都合主義の“機械仕掛けの神”が出てくる劇が多すぎる」などと考えて規範的美学を構築したのであり、世阿弥は、「自分が苦労を重ねて完成させた完璧な能の美学は、子々孫々、決して失われてはならぬ」というように考えて『能作書』を書いたのである。

     レフ・クレショフが1920年に初めてモンタージュ理論を書いた時、彼にはそれを書く極めて現実的な動機があった。帝政時代の映画産業が革命後の混乱と国内戦によって崩壊しつつあり、プロの映画人達は亡命したり死んだりしてしまったため、革命前のロシアで最も多く有能な才能を輩出したハンジョンコフ・スタジオでの“たたき上げ”の経験と、彼の合理主義的な頭脳が必要とされたのである。同じような素質をもった若者は、革命直前のロシアには大勢いたに違いないが、たまたま彼の年齢と経験とが時代の要請に一致し、彼自身もその要請に応える意欲があったのだ。

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    ボリス・クレショフ、エレーナ・コマーロワ 他

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     普通、ほとんどの芸術家には創作理論を書くような精神的余裕も、動機づけもない。現実主義的な創作者であれば、創作の秘密は自分だけのものにしておきたいであろう。その場合はメモ程度にするか、自分にしか分からない暗号を使って書きとめておくだろう。また、ゴッホのような情熱的な天才は、そもそも創作自体にしか関心がない。

     黒澤明も溝口健二も、創作理論は残していない。黒澤はその作品や脚本から判断して非常に合理主義的で教養も十分に深く、現在の大学教授の多くよりは“創作の理論”としての映画理論書を書く才能はあったはずである。そのことは、『影武者』や『乱』の見事としか言いようのない構成、『蜘蛛巣城』や『白痴』の極めて個性的な(タルコフスキーが「文学作品の最良の映画化」と認めた)文学作品へのアプローチや、常に変わらなかった造形的感覚からも明らかである。だが、彼にはおそらく創作の理論書を書くような精神的な余裕も、動機づけもなかった。

     現代の映画理論は、“古文献学”に堕すのでなく、“役に立つ”ものであろうとするのならば、創作者達の理論面での補助となるべできであろう。アリストテレスは2000年以上前にそれを行った。そして彼は、今でも十分“役に立つ”だけでなく、欧米では劇作家やシナリオライターの必読書となっている書物を残した。

     

    テーマ : 映画
    ジャンル : 映画

    tag : モンタージュ クレショフ

    The Archaeology of War

    It's a very short "Montage film", inspired by the words of an archaeologist Makoto Sahara arguing that war is not inevitable for mankind.
    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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