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    ジャンル映画の功罪、その天国と地獄:知られざるロシア映画 Ⅳ

    〔この記事には、筆者による学問的研究の成果が含まれています。無断引用は厳禁します〕

     セミョーン・ギンズブルクの『革命前ロシアの映画』(Кинематография дореволюционной России)を読んでいると、1910年代ロシア映画産業の経済的な裏面が良く分かる。この本は1963年に初版が出たが、私が持っているのは2007年の再版である。帝政時代ロシアの総括的な研究だが、単なる映画史研究のための文献以上の価値がある。というのは、“スター・システム”や“ジャンル映画”の成立過程、後者の多様性そして功罪に至るまで、かなり豊富な実例を提供しているからだ(当時は“ジャンル映画”とは呼ばなかったであろうが、後のジャンル映画と同様に、商業的思惑から類型化された作品群が現れていた)。

     ロシア映画史でジャンル映画の全盛期と言えば思い浮かぶのは、1950年代末から始まり80年代初頭まで続いたソ連の「黄金時代」である。この時期には、当局(正確には当局が組織した映画担当機関としてのゴスキノ)が、検閲機関としてだけでなく産業的な面でも映画を統制していたが、映画産業の振興のために映画作品の内容自体をより商業的にし、かつ多様化させた。国内の様々な映画スタジオ(地方にも、各共和国にもあった)に、ある程度自由なレパートリー決定権を与え、スタジオ内に複数の創作班という小組織を設けて、それぞれが特定ジャンル専門に制作するようにしたのである。
    更に、上映施設の数も増やした(詳しくは拙著『映画 崩壊か再生か』を参照)。

    映画 崩壊か再生か映画 崩壊か再生か
    (2011/09/20)
    西 周成

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     このような施策の結果、ソヴィエト映画は、以前に紹介したレオニード・ガイダイの“エキセントリック・コメディー”や、冒険映画、英雄的史劇、スパイ映画、探偵もの等、考え得る大抵のジャンルを網羅し、自国内で十分元が取れるだけでなく国庫に安定した利潤をもたらす産業に成長した。ガイダイの作品を紹介した際に挙げた観客動員数を見れば、それがいかに巨大であったかが分かる。セルゲイ・クドリャフツェフが1997年から98年にかけて作成したデータ(多分、ソ連時代の映画作品の観客動員数を総括したものとして唯一にして最良のもの)によれば、1940年から89年までの観客動員数上位を占めるソヴィエト映画784本は、全て2千万人以上を動員した。そしてそれらの映画の大半が、上述した“黄金時代”の制作である(クドリャフツェフ、『自分の映画』、1998年、モスクワ、410~443頁)

     ギンズブルクが詳述した帝政時代のロシア映画には、ソ連時代のように作品別の商業的成功を示す具体的な数字がない。当時はまだ観客動員数や興行成績の集計もしていなかったのであろう。ただ、映画館数の増加や、先行研究から引用された制作本数の急増(1913年の129本から1916年の499本)、稀におおよそのプリント本数が示されている。
     だが、そうした数字よりも遥かに興味深いのは、当時の映画ジャンルのプロットや形式上の特徴である。登場人物やプロットが類型的であり、他の分野(文学や演劇)からの借用が多いことを除けば、ソ連の“黄金時代”のジャンル映画と志向性が全く違うからだ。では、両者は具体的にどう違ったのか?
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    危機の時代における創作の「ダウンサイジング」

     前回このブログで述べたように、現在の世界同時不況は根が深い。経済指標からも生活者としての実感からも、それを否定する人はほとんどいないだろう。映画に限らず、商品の制作と流通のために大がかりな企業間連携が必要な文化産業は、この状況では大きなリスクを抱えることになる。

     以前、ロシアの著名なプロデューサーで監督でもあるセルゲイ・セリヤノフにインタヴューした際、ロシア映画の現状と若手映画作家のデビューに関連して、面白い例えを聞いた。「ロシアでは象のハンターになろうと考える人はいない。象がいないからだ」。彼が言いたかったのは、ロシア映画には立派な伝統があり、自分も映画で(金儲けはできなくとも)これまで生きてきたのだから、「映画」がある。だから「映画監督になろうと考える人は今でもいる」ということである。勿論、映画がない(つまり外国映画の公開設備すらない)国では、映画作家や映画監督を目指す人も現れないだろう。
     この同じインタヴューで、彼はまた、新しいメディアの登場や技術革新がもたらす変化に関しては何も危惧していない、とも述べていた。インターネットを自由に使いこなし、その環境が自然だと感じる世代は、また新しい映画的才能を生み出し、映画を豊かにするだろうとも言った。
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    ブロマガって何?

    最後の作曲家たち

     以前何度かこのブログでとりあげた、ウラディーミル・マルティノフのことを調べているうちに、彼と親交のあるラトヴィアの作曲家ゲオルグス・ペレツィスに行き当たった。
     面白いことに、私はペレツィスの器楽曲Nevertheless を10年以上前に聴いていた。ギドン・クレーメルの率いるカメラータ・バルティカの演奏によるバルト諸国の作曲家達の作品を集めたCDに入っていたのである。

     ソ連解体後、経済的にも政治的に混乱のさなかにあった90年代、マルティノフとペレツィスはそれぞれロシアとラトヴィアにいながら、往復書簡によって共作を行っていた。彼らは言わば創作上の同志だったのであり、作風にも共通性が感じられる。基本的には抒情的であり、時に非常に天上的であり、ミニマリズム的な技法をしばしば用いながら、アントン・バタゴフほどは乾いた諧謔的なポストモダンの空気を感じさせない。特にペレツィスの方は、現代の作曲家としては奇跡的なほどに無垢な抒情性を感じさせる。人はそういう作品に触れたとき、それを「美しい」としか形容しようがあるまい。

     マルティノフとペレツィスの生年は、それぞれ1946年と1947年、世代的な共通体験も多いはずである。彼らの世代は、1950年代後半から60年代前半のソ連における「雪どけ」の時代に思春期を過ごしたたものの、創作家として成長しキャリアを積むべき青年時代には「停滞の時代」の思想・表現上の締め付けを経験しなければならなかった。彼らより上の世代と違って自由を謳歌する余裕もそれほどなかったわけである。

     マルティノフに関して言えば、Youtubeで公開されているインタヴューで、1957年にグレン・グールドがモスクワ公演で演奏したバッハを聴いたことが作曲を志すきっかけになったと語っている。ちょうど映画界では「雪どけ」を象徴するような『カーニバルの夜』や『鶴は翔んでゆく』等がスクリーンに現れた頃である。彼らは、短かかった春の自由さを謳歌する上の世代のヒーロー達(タルコフスキーはその代表の一人だ)を見ながら育ったことだろう。実際、近年マルティノフは何度か公の場でタルコフスキーの晩年の映画(『ノスタルジア』と『サクリファイス』)に言及している。
     
     「60年代人」と呼ばれるタルコフスキーらの世代が次々に世を去っていくなかで、マルティノフやペレツィスが“権威”や“古典”と見なされるようになってきたのは、当然の流れだろう。だが、もしかすると彼らの世代が最後の偉大な作曲家になるのかもしれない。マルティノフ自身、“作曲家の時代は終わった”と公言しているくらいである。彼によれば、最近の作曲を志す若者達に、現代の作曲家の名前を挙げてみろと言うと、彼らは誰の名前も挙げられないという。また、かつては自宅にくる来客にショスタコーヴィチのレコードを聴かせる科学者がいたが、今アルヴォ・ぺルトやスティーヴ・ライヒの音楽がそのような扱いを受けることは想像すらできない、ともいう。

     アカデミックな音楽の衰退は、映画のアトラクション化や文学のエンターテイメント化と同様に、文化的産物に対する消費主義の終着点なのかもしれない。芸術作品とその鑑賞を、単なる「高級な舶来品」や「ステータス・シンボル」に変質させてしまうのも、同じ文化的消費主義である。それを“仕方がない”と受け入れてしまっては、もはや音楽からは、もっと言えば芸術全般からは、形骸、模造品だけしか残らないだろう。或いは、最終的に全ての作品が応用芸術というカテゴリーに入ってしまう。例えばデパートやカフェのBGMである。
     人類の歴史上、芸術がそこまで貶められた時代はなかった。だが、そのような状況が近い将来現実のものになるとしたら、人類はそれで幸福になるだろうか。御用学者達はそれを“文化の民主化”とでも呼ぶだろうか。
     

    テーマ : 音楽
    ジャンル : 音楽

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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