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    アルトアーツの理念

     私は5年前にアルトアーツという会社を設立した。当時の勤務先が明らかに経営破たん間近であったこともあり(この教育機関は既に存在しない)、先のことも考えてのことだった。
     
     配給会社を作ろうと思ったのだが、特別な準備をしたわけではない。その前年に、10年来の知人(故人)と現代ロシア映画祭を開催しようと企画したものの、リーマンショックの余波その他で実現せず、日本に紹介すべきロシア映画の数々がもったいないと思ったこともある。その実現しなかった映画祭の上映予定作品には、2000年代の新人達の作品(A.ズヴャギンツェフの日本未公開作『追放』、アレクセイ・ポポグレプスキーの『単純なこと』等)以外に、ソ連時代の『シャーロック・ホームズとワトソン博士』や、帝政時代のエフゲニー・バウエルの映画も含まれていた。それが2008年のことである。

     後年ポポグレプスキーの『夏の終止符』がベルリン映画際で受賞した“後に”日本で特別上映されたり、バウエル作品がほとんど人知れず“生演奏付”で特別上映されたりしたようだが、当時私達は彼らの映画以外に、10人以上の監督の全く紹介されていないロシア映画を、ロシアの各制作会社に連絡を取って上映許可を取り付けるまで、企画を進めていた。残念ながら、この企画のパートナーとなるべきだった故人は、“夢”を大きく描き過ぎた。当初の計画の規模で実現するためのスポンサーがなかなか集まらず、私が単館を借りての一週間の特別上映に変更しようと提案しても彼は聞かなかった。

     翌年春にアルトアーツを創立した時、私には、その映画祭で紹介しようとした作品の一部でもいいから配給したい考えがあった。劇場公開も一応は考え、一作選ぶとすればどれか故人と相談したりもした。資金不足とリスクが大きすぎるのとで劇場公開は見送ったが、今思えば正解だった(ちなみにその作品は、イワン・ヴィリパーエフの『多幸症』である)。

     それから5年が過ぎたが、アルトアーツは日本の映画文化に無視できない痕跡を残したと思っている。“ロシア版ホームズ”の連作3本は、この間に“ソ連時代のジャンル映画”のイメージを変えることができた。またこの連作を広める意図もあtって出版した『ロシア版ホームズ完全読解』(2011年)では、日本の一般映画ファン向けの出版物で初めて、帝政時代の巨匠エフゲニー・バウエルに触れている。

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     アルトアーツがまだ会社でなかった頃にDVD化した私の映画『光にむかう3つの夢想曲』及びその後に制作したドキュメンタリーも配給したし、3.11の直後売上がひどく落ち込んだ時には、映画以外の商品をネットショップで販売することにも力を入れた。ネットショップの一つを“別の生活ストア”に変えたのもその頃である。
     
     そもそも、アルトアーツを会社の形態にする以前から、私自身に、かなりはっきりとした“別の生活”への志向があった。大企業中心、大量生産、大量消費の行き詰った文明のあり方からの脱却である。
     この文明の特徴として、次のことが挙げられるだろう。表向きは“民主主義”を標榜しながら、19世紀かそれ以前に形成された政治・経済的な支配層(学問や芸術の大半もそれに事実上、従属してきた)の権益・権力を可能な限り保持しようとしていることだ。
     
     “アルトアーツ”の中の“アルト”(alt)はもともと“alternative”、つまり“別の選択”に由来している。
     芸術文化における“別の選択”を打ちだそう、古臭い「マニュフェスト」を中心とする党派的な芸術運動としてではなく、柔軟で寛容な、しかし芸術という理念だけは譲らず、作品の受け手との関係を重視した、緩やかでインタラクティヴな環境を作ろう。それが当初からの理念であり、この理念は2003年には既に形成されていた。
     当時から私には、芸術文化における本当に民主的で創造的な領域を確保したい、つまり作者達の個性を最大限に尊重しながら、それを既存の支配的な枠組み(今ではそれが近代資本主義システムだと分かるが)内に閉じ込めずに、作品を受け止める個々人との直接的かつインタラクティヴな関係の中で、それ自体として評価されるようにしたい、という意図があった。勿論、このような考えは、私自身が映画作家であるだけでなく、インディペンデントの優れた音楽家達の作品を知り、わざわざロシア最北の港町まで出かけて彼らと交流した経験にも裏付けられていた。
     
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     このような理念から出発しているアルトアーツは、既存の文化産業とは全く異なる、ある意味で非常識なやり方で存続してきた。利潤ではなく理念を中心に据え、しかもその理念は、どう考えても既存の支配的構造の存続に異を唱えていた。

     存在理由があくまでも理念的なものであるがゆえに、アルトアーツは“利害関係者”をそれほど気にする必要もなく、零細なままで時々の状況に合わせて柔軟に商品やサービスを拡大することができた。ある時期からは(特に3.11以降)現代の消費社会の後にくるものを視野に入れていた。それ故に、個々の商品がそれほど売れなくとも、現在の世界の趨勢からむしろ当然であると解釈し、あれこれの“主力商品”だけに頼るリスクを冒すこともなかった。
     
     BRICs諸国は別として、少なくとも先進諸国は現在、ゆっくりとではあるが“別の選択”に向かっている。
     これ以上の経済成長も、生活水準の向上も不可能であり、無意味でさえあることが分かり始めただけでなく、一般市民の多くが中産階級から脱落してゆくにつれて、これまで支配的だtった既存の価値観(消費主義がその中心にある)に、疑問を抱き始めたからである。何か別の、より普遍的な理念が必要だと分かり始めたのである。

     人間の幸福は、あくまでも物質的には“足る事”を知りつつ、人間が本来もっている創造性を、権威や金銭を基準とすることなく、発揮しかつ享受するところにある。

     ロシア出身で十月革命後に亡命した宗教哲学者ニコライ・ベルジャーエフは、こう書いている。“人間の本性は創造的なのだ。なぜなら、それは神の似姿だからである”

     私はこの言葉を、アルトアーツを設立する6年前に作った20分の短編ドキュメンタリー“Ritual of White Night”の冒頭で引用した(『リトアニア 神々の黄昏』に収録されている)。
     ベルジャーエフの言葉を、私は決して特定の宗派、宗教に限定して受け止めていない。神は、最も高貴で神秘な状態、すなわち真に創造的な状態になった“人間”自体のイメージに他ならないと考えるからである。
     
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    テーマ : art・芸術・美術
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    tag : エフゲニー・バウエル ロシア版ホームズ

    システムの移行期に運命を「作る」こと

     人の資質や才能が十全に発現するためには、それらが枯れてしまわないための最低限の環境が必要である。
     ここで言う環境とは、周囲の全ての要因が総合されたものであり、一つや二つの条件のことではない。

     生態系の例を見れば良く分かる。
     南米の熱帯雨林には多種多様な動植物が生息しているが、過去にはその範囲はもっと広大だった。海から吹きこむ貿易風の流れが変わっただけで、熱帯雨林の境界は内陸部に後退してしまった。熱帯雨林が後退した後にできた湿原では、山火事に耐えて表皮が堅く進化した樹木等、比較にならないくらい少数の動植物しか残らなかった。

     アラビアの駱駝も同じだ。彼らはオアシスに辿りつくまで水を飲まずに長期間生きていけるよう進化を遂げたが、その代わり優雅とは言い難いコブを背中にもつことになった。

     人間の才能や資質も同じである。スポーツ選手やお笑い芸能人ばかりがもて囃され、芸術という言葉が何か不信をもって用いられるような社会では、ドストエフスキーやトーマス・マンのような才能、資質は伸びる以前に枯れるかもしれない。
     文学の場合はまだいい。書くのにはパソコンとワープロソフトだけがあればよいし、何十年も評価を待つこともできる。映画作家の才能が開花する条件は、文学とは比較にならないくらい限定的である。健全な映画産業というものが必要なのだが、その「健全さ」は、歴史的に見れば近代資本主義が大衆社会と大量消費社会を実現していった過程にしかなかった。
     そのプロセスはもう、遠い過去のものである。今は近代資本主義の末期なのだ。

     私は大学生の頃、2041年の世界を舞台とする20分の短編映画を作った。「Dialogos」というその短編では、文字通り4人の対話がプロットを進行させる。出来事としてはそれだけである。1989年当時の「現在」のエピソードと2041年の「未来」のエピソードの交替により、主人公の個人的な「運命」と文明の「運命」との接点が明らかになっていくという構成である。当時それは直感的に浮かんだ構成だったので、論理的にそう考えて作ったというわけではない。

     主人公を演じたのは、数年前に小説家としてデビューした杉浦昭嘉君である。
     勿論、当時彼は映画を目指しており、実際に映像の世界に進んだ。
     だが、映画産業は既に述べたように、健全さを失って凋落している。小説に取り組み始めたのは正しい選択だろう。



     「Dialogos」の中で彼が演じたのは、物静かで、どこか虚無感も漂う、どうやら文学好きの青年である(当時の本人のイメージに近い)。彼は「退屈」しているのだが、それを金銭で「紛らわす」ことの虚しさを感じ、その退屈に甘んじている。このような若者のイメージを、現在の日本の観点で見てはいけない。当時は土地バブルの頂点、日本の大量消費文明の頂点だったからだ。それは破滅への道だと、私は気づいていた。それゆえの「虚無感」なのだ。
     
     杉浦君の最近作は、福島原発事故をモチーフにしているようだ。彼は「Dialogos」で私が暗示したようなタイプの、「日常生活を描き、ありふれた話ばかり」書く小説家にはならなかった。それは彼の資質によるだけでなく、80年代末のバブル崩壊以降、現実の社会があの映画で示した未来にますます近づき、80年代までのありふれた日常的出来事がノスタルジーの対象にしかならなくなった、ということにもよるのだろう。

     そうした日常生活は、いまだにテレビドラマで人々を「安心」させている。そして多くのビジネスマンも、それが永続するかのように生きている。古いシステムへのノスタルジーはいまだに強いのだ。それに違和感を感じ、その違和感を表現や行動に表せるかどうか。ステムの移行期に生きる我々が運命を「作る」ことができるか否かは、そこにかかっている。
     

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    アメリカ型大量消費文明の後に“来るべき世界”

     『来るべき世界』(Things to Come)というSF映画がある。H.G.ウェルズ原作・脚本、ウィリアム・キャメロン・メンジース監督による、1936年製作のイギリス映画である。この当時、ドイツでは既にヒトラーが政権を握り、ソ連ではスターリンが大粛清を行う前夜だった。この映画で間近に迫る世界戦争の危機が描かれているのは、そうした世界情勢を反映したものと言えよう。
     『来るべき新世界』では、世界戦争は数十年にも及び、ようやくそれが終結した頃には、人類の科学技術や文明の多くは失われてしまう。だが、まるで『マッド・マックス』的な廃墟と化した街で前時代的な支配者から解放された人々は、更にその数十年後、清潔で合理的な都市を建設する。その時代には、古代ローマのトーガを連想させる衣装に身を包んだ為政者が、一部の市民の反対を押し切って人類の遠大な理想のために自らの息子を世界初の惑星探査ロケットに搭乗させる。細かい部分は私の記憶違いがあるかもしれないが、以上のようなあらすじの映画である。
     
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     戦前のSF映画、特に未来の都市生活を描いた作品として、おそらくフリッツ・ラングの『メトロポリス』に並ぶ知名度を持った映画である。だが、ここで描かれた未来都市は、『メトロポリス』の場合と違って階級社会や労働者の重労働に支えられているわけではない。資源は地下からハイテク掘削機によって採掘されているようである。この映画は全体として、戦争や抗争は見せても労働や生活は全く見せていない。
     原作者で脚本も兼ねたH.G.ウェルズは、未来のエネルギーや資源についてどんな考えを持っていたのだろうか?こうした抽象的ともいえる科学万能主義的な未来世界は、戦後のSF映画にも部分的に継承された。そして、経済成長に陰りが見え、アメリカがソ連との経済的競争に一時的にせよ敗れかけた1970年代のハリウッド映画に、以前の開拓者的な精神なしで再現された(『ローラーボール』、『2300年未来への旅』)。
     だがその同じ時代に、エネルギーの確保や環境破壊の阻止や人口増加に伴う食糧不足の解決なしには、人類に“明るい未来”などありえないことを警告したアメリカ映画もある。リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(73)である。だが、その程度のことは、公害やオイルショックが世界の話題になった1970年代には、普通に考えてみれば当然分かったはずである。
     その後、全面核戦争が起きれば“核の冬”が到来して人類はほとんど滅亡するという科学者達の予測が発表され、冷戦終結直前にはチェルノブイリ原発事故が起き、酸性雨や地球温暖化も環境破壊の要因として指摘されるに至って、『来るべき世界』で提示されたような未来都市や宇宙征服のイメージは、たとえフィクションの中であっても全く非現実的に見えるようになった。1980年代後半の主なSF映画に描かれた未来世界は、ハリウッド映画、非ハリウッド映画の別にかかわらず、ほぼ全てが暗い翳を帯びているといっていい。

     しかし大半の人間は、普段は個人生活の忙しさにかまけて、人類の未来とか民族国家の存亡とか、そのような問題を忘れがちである。実際、福島第一原発事故が起きるまで、日本人のほとんどはチェルブイリ原発事故の影響を自分達の、あるいは“人類”の問題としては意識できなかった。
     映画や小説などフィクションの創作家達、特にSFとして大別されるジャンルの創作家達は、科学技術の進歩も自然環境の悪化も、それらに関する最新の研究やジャーナリズムにおける言説も、全て物語の“背景”や“設定”としてのみ扱いがちな気がする。たとえば、『ブレードランナー』の未来都市がどれほど薄汚れていて酸性雨が降りしきっていても、それは主人公の健康を害する要因としては描かれていない。そこでは環境は“雰囲気作り”のためのセッティング以上のものではない。だが、未来における環境の破壊や汚染が人間や社会へのリアルな脅威として描かれた場合、そこには従来SFと呼ばれていたジャンルには全くなかったイメージやドラマが展開されるはずである。そうしたイメージやドラマは、その衝撃によってジャンルそのものを破壊するかもしれない。コンスタンチン・ロプシャンスキーの映画『ミュージアム・ビジター』(89)は、今思えば早すぎた試みだったのかもしれない。人類は当時まだ、(チェルノブイリの後でさえ)自らが作り出した文明の産物による自滅を、それほどはっきりとはイメージできなかったのだ。

     SFは、現代の複雑化した社会・経済・政治・環境の相互関係を、鮮やかなドラマや情景描写、寓話性あるいは象徴性を備えた物語を通じて提示することのできる、興味深いジャンルであると思う。私はSF映画の専門家ではないし、ましてやこのジャンルの小説に至っては現在の動向を少し遅れて部分的に追うのが精いっぱいである。

     それでも敢えて言えば、3.11後のSFは、以前のように、その内部だけで完結しうる疑似閉鎖系を許容するようなジャンルではなくなったという気がしている。SFの主な読者あるいは観客であったはずの“中産階級”はアメリカを初めとして先進国で徐々に瓦解し始めている。また、その不可避的な帰結として、科学技術の発展に充てられる振興予算の削減や、高等教育を受けられる若者の減少が考えられる。
     今後、徐々にエネルギーは、たとえ化石燃料に代わるオールタナティヴが開発されたとしても、大量に消費される理由がなくなってゆくだろう。なぜなら、貧しいが誇りを失っていない人間というものは、自分の未来や理念等を犠牲にしてまで不必要な消費をしないからである。社会の趨勢が清貧に向かえば、やがてそれは新しい社会規範を定着させる。そうなれば、当然のごとく多くの高価な技術が不要になる(iPadやエスカレーター等は言うまでもなく、エアコンすら、人間の生物学的・社会的な生存に不可欠なものではない)。
     全人口の1%に富を集中させようとした金融資本主義の末路とは、資本主義そのものの機能不全と破綻なのである。
     
     現在のエネルギー消費は、その大部分が、一般市民向け製品の大量生産や一般市民の“快適”な生活の追求によるものである。市民社会の拡大、その大衆社会化による大量消費こそが、これまでの資本主義社会における経済成長を支えてきた原動力だった。だがその時代が終わるとなれば、我々の未来は、最悪の場合には階級社会の復活により“新しい中世”となり、それよりもましな場合には、1930年代からせいぜい70年代までのどこかの生活水準で満足するしかなくなる。私が予想する『来るべき世界』とは、そのようなものである。そこでは、宗教や芸術、哲学の役割が現在よりも大きくなっていることだろう。

    テーマ : イギリス映画
    ジャンル : 映画

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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