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    システムの解体と人生の意味・幸福: 世界システムの転換期と“普通人”の運命 12

     世の中には、不思議な人種がいるものだと、私は常々感じてきた。
     
     例えば、私が20代前半の頃、現代ロシア映画を本格的に研究し始めた時に出会った、“ソ連映画”の礼賛者達。彼らは映画を芸術や娯楽として見ていたというよりも、彼らが生まれたわけでも市民として住んだわけでもない“ソ連”という国の全てを肯定しているように見えた。

     或いは、やはり同じ頃に出会った、“ハスミ信者”。映画を監督の個人的な表現と見ていたのか集団の創作物と見ていたのか、はたまた映画というメディア自体に何か超越的な価値を見ていたのか、彼らは無意味に金銭や時間を浪費して大量の映画を鑑賞し、特定の批評家の言説は無条件に信頼する一方で、それに囚われたままで自分が“批評家”や“研究者”になれるなどと信じていたようだった。

     あれから四半世紀以上がたったが、こうした人々は“成功”したり、“幸福”になれたりしたのだろうか。

     私自身のことを言えば、過去四半世紀の間に、愚かな失敗の数々や失望の瞬間だけでなく、多くの幸福な瞬間や無条件の充実感を味わった瞬間があった。それらは全て、誰の“信者”になったわけでもない、私の個人的な選択の結果だった。

     私が幸福や充実感を手に入れた瞬間は、金銭や社会的地位とは全く何の関係もなかった。
     つまり、現在の世界システムとは何の関係もなかった。それは精神的なものだったのである。

     当たり前だと思われるかもしれないが、友情も愛情も創作上の喜びも、新しい知識を体系的に整理して得られる満足感も、金銭や社会的地位とは無関係である。問題は、それらを求め、それらを尊重する意志が、あなたにあるかどうかにかかっている。
     
     あなたには親友がいるだろうか?
     いるとしたら、あなたの人生は成功している。

     
     あなたは、自分の職業を天職と感じ、一生そこで刻苦精励しながら人々に認められる確信があるだろうか?
     だとしたら、あなたの人生は成功している。
     
     この二つの点に確信が持てるなら、あなたの人生は死ぬまで成功であろう。

     年収がいくらだとか、褒章を得たとか、そんなことは無関係である。
     たとえ“世間”に忘れられようと、親友はあなたの人間としての価値を、同志はあなたの作品を、絶対に忘れることはない。

     親友とは、何が起きても裏切らない人生行路の同志である。たとえ別の国に住んでいて何年も会っていなくとも、実際に顔を合わせたのが数回に過ぎなくとも、親友、或いは“友人”というものは、あなたの生死に関わる事件が起きた時に、必ず心配してくれる(ただし、あなたが相手を自分と同様に尊重し、敬愛し、決して“利用”しようなどと考えない場合に限る)。
     天職とは、世界システムのゲームの規則とは何の関わりもない、あなただけが判断できる仕事の世界である。そこでは、同じ天職を持っている人々からの称賛が、最高の褒章になる。

     あなたにはこのどちらもなく、その代わり経済力や社会的地位の威光によって“広い人脈”をもっている自信があるだろうか?
     だとしたら、“あなたは取りあえず、今のところは成功しているようだ”と言いたい。
     “取りあえず”、というのは、現在の世界システムが解体し尽くすまでの間、あと10年か20年ほどは、という意味である。
     あなたに子供がいるとか、長生きするつもりであるなら、現在上手くいっているように見えも決して安心はできないのである。

     この連載で述べてきたように、現在の世界システムは、その管理者達にとってさえ、既に十分機能せず、不都合になってきている。大衆消費社会という経済モデルはもはや機能しないが、次のモデルが提示できない。そして人口を削減して階級社会に戻すには、まだ市民社会を信じている“普通人”達の力が強すぎるからである。いずれにせよ、エコロジー的にも、経済的にも、国際政治の面でも、このシステムはもはや“機能不全”が目立ちすぎる。しかし一挙に変えることもできなければ、問題を合理的に解決することもできない。それはまるで、全身に転移した癌に対して既存の療法を試みているようなものだ。新奇で思い切った療法を施すこともできるかもしれないが、患者はそれで死ぬ可能性が高い。

     前回はタルコフスキーの映画から二つの印象的な言葉を引用したが、今回は、彼の実現しなかったシナリオ、『ホフマニアーナ』について触れよう。勿論、その「文学的シナリオ」を美学的に分析しようというのではなく、彼の人生と創作との接点、彼が人生の意味や幸福をどこに見出していたかという観点から、である。
    hoffumaniana.jpg

     最近、この実現しなかったシナリオの、前田和泉氏による邦訳本が送られてきた(奥付には2015年9月25日発行とある、発行:エクリ)。タルコフスキーの他の作品との美学的な関連については、同書に所収された前田氏による解説に詳しいので、ここでは触れない。私がこの邦訳本を読んでいて“発見”したのは、審美的な問題ではなかった。
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    “システム”からの離脱、芸術による救済: 世界システムの転換期と“普通人”の運命 11

     
     ある賢人は言った。“罪とは必要のないもののことだ”と。(映画『サクリファイス』より、主人公アレクサンデルの台詞)

     アンドレイ・タルコフスキーの遺作となった『サクリファイス』の主人公は、映画の冒頭近く、“ハムレットの心境”で幼い息子を相手に、人類の文明についての独白に近い言葉を語る。かつて俳優であり、今は芸術批評家で大学でも教えているという設定のこの主人公は、半ば独白によるこの思考の果てに、次の結論に達する。

     “我々の文明は最初から間違っていたのだよ”

     ここでタルコフスキーの主人公アレクサンデルが言っている“我々の文明”とは、彼がどれほど日本の伝統文化に傾倒しているとしても、“西欧文明”ではないことは明らかである。タルコフスキーは『惑星ソラリス』のロケで、1970年代初頭時点でモスクワよりもはるかに“未来的”だった東京を訪れているのである。
     
     タルコフスキーと映画『鏡』のために共同脚本を書いたアレクサンドル・ミシャーリン(この人も既に故人)の回想によれば、タルコフスキーはSFというジャンルが嫌いだった。彼が関心を持っていたのは、現代文明の中で生きる人間の内面的葛藤を、変化しやすい時事的な問題には関連づけずに示すことだった。 

     現代文明とは、歴史学で“近代”と呼ばれている時代以降に急速に世界に拡大していった文明であり、この連載の最初で定義した“資本主義システム”を中心として動く文明である。
     
     タルコフスキーの『ストーカー』撮影の際に2年制の高等脚本家・監督コースの研修を受けたコンスタンチン・ロプシャンスキーは、自分の最初の長編劇映画『死者からの手紙』(86)と2作目『ミュージアム・ビジター』(89)で、この現代文明の行きつく二つの悲劇的帰結を描いている。
     前者は核戦争の結果、後者はエコロジー的な破局の結果、現代文明は滅びてしまう。正確にいえば、ロプシャンスキーが描いたのは、“滅亡の後”生き残っている人間達の悲劇的状況である。

     タルコフスキーやロプシャンスキーが芸術家として示したヴィジョンは、彼らの創作方法がどうであろうと、実はこの連載で定義されているシステムとしての資本主義の必然的な帰結である。

     資本主義システムが存続する限り、軍需産業が消滅することも国家が消滅することもない(単純な国家主義者や民族主義者、職業軍人達の多くは、それゆえにこのシステムを“愛している”かもしれない)。
     その代わり、このシステムに従って全人類が行動すれば、地球にも人類にも、未来はなくなるのである。

     核兵器を用いる世界大戦は、人類滅亡のリスクが存在するため、また地上及び空中の核実験が禁止されて40年も経ち、アメリカもロシアも“作動するかさえ分からないような”大陸間弾道ミサイルを管理しているにすぎないため、まず起きる可能性はない。しかし、資本主義システムの管理者である“陰謀的諸構造”にとって、軍需産業は金融業に並んで大きな儲けの種なのだ。しかも恐ろしいことに、彼らの本当の目的は「儲け」すなわち金銭や金の増大ではなく、全世界に及ぼす“権力”なのである。

     A.フールソフによれば、これら陰謀的諸構造の中核にいるのは、世界で僅か40ほどしかない“超財閥”、広瀬隆が執拗に系図を調べていた閨閥達である。彼らはお互いに姻戚関係を結び、自分達の領域には部外者を決して入れないという。主要先進国の資本を動かしている最大の勢力は、“ブルジョワ”達ではなく、実は貴族達なのだとフールソフは言い、その例として現代ドイツ経済の殆どが実は貴族達の手にあると、自分の学生達に語っている。この点で彼は広瀬隆と同じ観点をもっている。

     フールソフや広瀬隆の考えがどこまで正しいか私には判断できないのだが、少なくとも次のことは確信をもって言える。
     
     資本主義システムの本質は、“市場原理主義”でもなければ“グローバリゼーション”でもなく、時にはヒトラーのような指導者を持つ全体主義国家の存在さえも“利潤”のために利用する彼ら、“陰謀的諸構造”のプレイヤー達によって“ゲームの規則”(国際関係、世界経済のルール)が決められるところにある。
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    情報戦、“陰謀論”、スターリンの「第3の妻」: 世界システムの転換期と“普通人”の運命⑩

    情報戦と大衆文化 

     現代の「情報戦」(information warfare)は、主に大衆、一般市民(普通人)をターゲットとしている。従って、その「武器」としてはマスメディアが最も有効であって、補助的には“大衆文化”の一部も利用されている。
     
     例えば、実質的にアメリカの経済植民地であるフィリピンでは、冷戦終結後もまだ「敵国」であるロシアに対して、アメリカに登記された映像制作会社の作った映画やテレビドラマを用いてロシアのイメージ悪化を促しているという(次の動画を参照。日本語字幕はYouTubeの字幕機能で出る)。
     
     この政治家アントン・ロマノフ氏がフィリピンを初めて訪れた時、現地の人々はそれらの映像作品の影響によってロシア人をとても恐れ、「何もかも奪われる」と思い込んでいた。だが、ロマノフ氏が皮肉っぽくコメントしているように、彼らは既に果物の木一本に至るまでアメリカに「もう全て奪われている」のである。

     勿論、情報戦には相手国の政府や軍組織から情報を盗み取るといった、スパイ映画に描かれるような事柄も含まれている。だが、現代の戦争は核兵器の使用による文明の崩壊という現実的なリスクがあるために大国同士が衝突する世界大戦になる可能性が低く、情報を盗むといっても軍事力の優劣を競うよりも経済的な利権を確保する目的で行われることが多いと思われる(米NSAは実際に、他国の大企業の通信を盗聴していた)。この傾向を加速させたアメリカは、「エコノミック・ヒットマン」であるジョン・パーキンスがその自伝的な著書で書いているように、既に1960年代から「コーポレートクラシー」の体制に移行していた。現在、同国の実質的な支配者は、金融・経済界の大物達である。

     他国での経済的利権を確保するには、その国の「人心」を自国に引き付けるのが一番である。勿論、フィリピンの例に見られるような、「敵国」に対する誹謗中傷的な宣伝も欠かせない。しかし、ネトウヨのような知的に劣った人々やそのような人々が政権を取って情報統制を始めたウクライナのような国は例外として、世界の普通人達の多くは、もはや「国家」や「民族」の優劣を語るようなハードな“プロパガンダ”を受け入れなくなっている。そこで、国際的な影響力を持つ「通信社」という道具や、いわゆる「ソフトパワー」の力を借りることになる。
     この観点から現代のマスコミ報道や「陰謀論」的な著書を読むと、別の世界像が見えてくる。まず、ロイター(ロスチャイルド系)やウォール・ストリート・ジャーナルをソースとするマスコミ報道を鵜呑みにしてはいけないのは当然である。しかし、一見それに対抗しているように見える「陰謀論」的な文献も、長年に渡るアメリカの「ソフトパワー」の影響を受けていないとは限らないのである。

    学問的な検証を受けない“陰謀論”の危うさ

     「陰謀論」は、学問的な研究と違って必ずしも情報ソースを明示しない。たとえ参考文献を示す場合でも、商業的な効果を狙って学術的な引用、出典の表記はしないのが普通である(学術論文では、出典には書名、著者名の他、出版社名、発行年、参照ページも示さねばならない)。一般読者はそのような表記を「うざい」と感じる。だが、それらがなければソースの確認は不可能なのである。

     広瀬隆氏を「陰謀論」の著者だと言っては語弊があろう。実際、広瀬氏は、原発・原子力産業関連の啓蒙書やロスチャイルド家の系図に基づく権力構造の解明では、評価に値する仕事をしている。だが、氏の本にはしばしば出典が明示されていなかったり、信憑性の程度にばらつきがある文献を参照していたりするという欠点がある。そして、系図と人脈の分析による国際的な権力構造の解明という、氏が得意とする方法論自体、一歩間違えれば巷に流布する陰謀論と同様に独断という罠に落ちる危険性を帯びている。それが特に感じられたのが、『ロマノフ家の黄金』(ダイヤモンド社、1993年)である。この本でも、広瀬氏は系図学に基づくロシア貴族階級の権力構造の解明を行おうとしているのだが、所々で上記の欠点が目立つ。

     例えば、ヨシフ・スターリンの“3人目の妻”だったと言われるローザ・カガノーヴィチに関する記述である(39~40ページ)。スターリンの忠実な部下でモスクワの近代化に尽力したラーザリ・カガノーヴィチの妹だとされるこの人物は、最近の歴史学的な研究によって、実在しなかったことが判明している(ロシア語のソース http://www.infox.ru/science/past/2010/04/28/roza_kaganovich.phtml)。この記事で紹介されているアレクサンドラ・アルヒーポワ(ロシア国立人文大学とブレーメン大学で準博士号を取得)のフランス=ロシア人文・社会学センターでの報告(モスクワ、2010年4月27日)によれば、このローザ・カガノーヴィチなる人物には年齢的にも経歴の上でも、類似した“モデル”さえいなかった。最初にこの人物に言及したのは、1937年にソ連からフランスに政治亡命し、後にアメリカに移民したアレクサンドル・バルミンなる人物である。そして、戦後には、ニコライ・バヘシスなる亡命者(ドイツ、後にオーストリア国籍を取得)の著『スターリン』(1952)がローザ・カガノーヴィチについて書いたが、この人物はモスクワ生まれの経済学者・ジャーナリストだったという。
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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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