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    20世紀型文化産業の終焉

     ロシア革命の後フランスに亡命した宗教哲学者、ニコライ・ベルジャーエフに、「新しい中世」という論文がある。細部はもう忘れてしまったが、精神性や創造性を失った現代文明が凋落した後に、中世的な厳しい精神性の時代が来るという予言的な内容である。(以下略。全文は有料記事になります)
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    ブロマガって何?

    作品は技術に逆らって成立する

     映像業界では、SD(4:3)からハイビジョン(16:9)への移行とともに、撮影・編集機器のめまぐるしいまでの世代交代が起きた。現在はそれが民生機にまで波及し、さらには民生用デジタル・スチルカメラにプロ並のHD動画記録機能がつくことで、一種の混乱が起きている。(以下略、全文は有料記事となります)
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    ブロマガって何?

    文化の運命と批評の役割

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    ブロマガって何?

    「一般向け」作品という幻想の終わり

     今や“大衆”なる言葉は死語であろう。

     人々の文化的生産物への嗜好は、ここ10年ほどのメディア多様化の加速によって、本来そうあるべきであった状態に近づきつつある。つまり、もともと平等でも何でもない、美的感性や芸術への欲求に従って、人々は自分に必要な映画や音楽を求めるようになった。

     私はもう4年か5年ほど前から、トルコのヌリ・ビルゲ・セイリャン(ジュイラン)監督の作品をDVDで観てきた。今日ネットでたまたま、彼の諸作品がようやく日本の有料テレビチャンネルで放映されたことを知った。
     私は以前の勤務先で社会人学生に彼の作品の一部を見せたことがあるので、彼らの誰かが、その有料チャンネルの担当者に勧めた可能性も否定できない。そうだとしたら、礼のひとつも言ってほしいものだ。
    そもそも、彼ほど世界的に有名な監督の映画が、日本でこれまで一本も公開されていないことの方がおかしいのである。

     それはともかく、芸術としての映画や音楽に関する大手マスゴミの無関心さは、例えば、映画好きの人間が有料でないテレビ放映に何の期待も抱かないほど、ひどくなっている。映画以外の番組は、そもそも横長のハイヴィジョン放送の必然性すら、ほとんどない。
     例えば、「映像詩」とか称して説明的ナレーションの過剰でせっかく苦労して撮った映像を台無しにしている某テレビ局系列会社の作品。そして、映画が放映されるかと思えばハリウッド映画と局製作邦画のオンパレードである。彼らには映画的感性どころか、初歩的な芸術の原則さえ分からないのか。「詩」と「散文」の違いも分からないのか。

     そんな状況で、面白いのはパラジャーノフやタルコフスキーの「デジタル・リマスター」やら「プレミアム・エディション」やらのDVDが、時には私の会社から出ているロシア版ホームズDVDより売れていることだ。ロシア版ホームズ連作は、非常にレベルの高い「一般向け」作品である。特に俳優のアンサンブルがすばらしい。
     ところが、20年、30年前だったらほとんど映画マニアしか観に行かなかったようなパラジャーノフやタルコフスキーの、しかも1000円以上は高いソフトがそれに劣らず売れるのは、どういうことだろうか?

     ジュイラン(セイリャン)の作品を、わざわざ海外から取り寄せているのは、今では私のような研究者だけではない。それは確かだ。私の会社でも実は配給したい作家の候補に挙がっていたが、何しろカンヌで連続受賞した監督だから、おいそれとは買えない。
     だが、ネットで彼の作品について書いている人々は作品の芸術的な質やドラマ的な特色だけを問題にしている。だから、私はこう確信した。
     カンヌその他での受賞歴さえ、これまでは当然とされていた「一般向け」宣伝材料のひとつに過ぎない。もはや映画配給業者の生き残りは、映画の質を最初に見抜く力だけにかかっていると。ジャンル映画を扱おうが、アートハウス映画を配給しようが、その点では同じである。

     例えば、『ある日どこかで』というよくできたメロドラマがある。私はこの作品がロングセラーになるだろうことを当然のように知っていた。監督は無名、俳優も、主演のCh.リーヴ以外は日本ではほとんど無名。だが、脚本がシンプルでよく練れている(欠点もある)。演技も自然、撮影は癖がなく素直だ。ジャンル映画とはそのように作るものである。
     ちなみに、私がロシア留学中に作った38分の劇映画『The Last Sunset』は、神秘主義的メロドラマであって、映画祭向けの映画ではない。『ある日どこかで』や『ジェニーの肖像』が好きな人にはお勧めできる。私は映画における詩と物語内容の単純さとの共存、ジャンル映画と作家映画との境界をなくすことを、あの作品で目指したのだ。もちろん、作品が多くの観客に受け入れられ理解され共感されることで、少しでも制作費を回収したいからである。だが、マスゴミの俗物は“映像”だけに目を奪われていた(私はその前の二作に比べて、映像には満足していない)。
     
     人は偏見に囚われやすいものだ。大手マスコミがほとんど唯一の映像メディアだった時代、新聞がなんとなく権威のあるものに見えた時代には、その作者や筆者たちがどれほど凡庸で権威主義的な俗物であったとしても、彼らの駄文や駄弁はそれなりの影響力をもてた。「アート映画」が“難解”であるという偏見は、そのような時代に、もともと芸術的センスのない俗物達の手で作り上げられた。ソ連にもその同類がいた。文化官僚達である。

     今や、タルコフスキーでもパラジャーノフでも普通に受け入れられる時代になったが、彼らの生前、彼らの映画を好んで見たのはインテリとシネフィルだけだった。彼らの悲劇は、時代に20~30年先ほど先駆けていたことだ。時代が変わり、しかるべく評価されるものは観客自身によって評価されるようになった。

     私の会社から出す映画は、絶対に見て損はない。なぜなら、すでに述べたように、私には作品の質を見抜く力があるからである。ジャンル映画でもアートハウス映画でも、私が権利を買いたいと思うような作品は、遅かれ遠かれ、放映されたり話題になったり、ロングセラーになったりするのだ。


     

     

     

     
     
     


     

     
    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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