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    楽器と撮影用カメラ

     20年以上前に撮った8mm映画を、まずVHSにテレシネし、それをDVDに焼いてからPCにMPEG形式で取り込んでみた。面白いことに、これだけ変換を重ねていても8mmはそれ以外の映像には見えない(リンク先動画を参照)。
    Dialogos
     撮影用カメラというものは、音楽における楽器と似ている。撮影用のフォーマット(8mm、16mm、35mm、Hi-8、DV、HDVその他)だけでなくカメラの重さ、大きさ、レンズその他によっても、映像の質感が変わってくる。タルコフスキーはかつてトニーノ・グエッラと共同監督で『旅の時』なる16mm映画を作っているが、このドキュメンタリーは彼が35mmで作った映画とは相当に質感が異なっている。

     8mmフィルムは、編集の跡が画面上で目につくという点、時間を経ると必然的に付着するフィルム上の汚れが目立つ点でも、誰が撮ろうがアマチュア的に見えるという宿命を持っている。ところが、昔の8mmカメラと同じ価格帯で今買うことのできるHDVやAVCHDのヴィデオフォーマットは、フィルムで言えばもう16mm以上35mm以下というプロ領域のスムーズさを実現している。これらのフォーマットは誰が撮っても質感だけはある程度プロ的に見えるわけである。

     楽器に例えれば、8mmはハーモニカ、35mmはヴァイオリン、HDVやAVCHDはハープやピアノといったところだろうか。だが、音楽が音の質感(音色)だけでできているわけではないように、映画も映像の質感だけでできているわけではない。
     吉松隆の「忘れっぽい天使」というCDアルバムに収められたハーモニカのための曲は、この楽器の特性を活かした芸術作品であって、決してアマチュアの作品ではない。この楽器を念頭に置いた構成や、楽器の振る舞い方を踏まえた装飾音が、ちゃんとそこにある。
     これと同じようなことが、8mmや16mmやHDVその他の映像フォーマットとそのためのカメラに関して、映画の作り手によって念頭に置かれるようにならなければならない。ジョナス・メカスは彼の個人映画を16mmで撮ったのではなかったか。あれは16mmフィルムとそのためのカメラでなければ撮れない映像だった。

     映画作家は、特定の映像フォーマットを偏愛すべきではないと思う。カメラを楽器のように扱い、白飛びや音飛びも活かし、古いビデオ素材の荒れ具合にも興味を抱き、デジタル映像の鮮明さもフィルムのくすみ具合も愛し、それらをオーケストレーションできたら、どれほど面白い作品ができるだろうか?

     ネットでの公開用にそういう作品を作ってみてもいいだろう。勿論、そういう実験では金儲けなど考えてはいけない。思えば、35mmというフォーマットは商業主義の手垢にまみれた、実に資本主義的なものなのだ。私は様々なビデオフォーマットも、フィルムと同じかそれ以上に好きなのだが、それはビデオが資本主義の課す桎梏から相当に自由だからだ。
     ペンを持って書くようにビデオカメラでエッセイや詩を作ることができる。音楽クリップというのは映像による短詩である。それを映画でないと言うのは、俳句や短歌を文学でないと言うのと同じくらい、野蛮な暴論だろう。


     
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    “雑種的”芸術

     個々の芸術(音楽、文学、絵画、彫刻、演劇、映画等)がそれぞれ個別の“美学”(或いは詩学)を持つべきだというのは、ヨーロッパの“近代”が提示した教義である。芸術が宗教から分離し、最初は哲学の一分野としての“美学”の研究対象となり、19世紀末から20世紀初頭にかけて分離と総合という両極への揺れを経たが、抽象絵画や十二音階技法やアヴァンギャルド映画の登場をもって、各芸術における美学或いは詩学の自律性が確立された。

     だが、その後の各芸術の動向を見ると、構成原理において混ざり物のない純粋絵画、純粋音楽、純粋文学、純粋映画は、発展するどころか衰退するばかりだったことが分かる。大衆文化というものは、大抵は雑種的なものであって、様々な芸術分野から引用や構成原理の借用や模倣を行っている。そしてその雑種性ゆえに、“純粋”な芸術よりも幅広い支持者を得、経済的に“元が取れる”ものになる。

     アンディー・ウォーホールの実験映画は、映画美学的には興味深くとも、結局は博物館や美術館の収蔵品としてしか残るまい。チャップリンの映画は、それよりは長く観客に愛されるだろう。黒澤、タルコフスキー、ブレッソンの映画は、その映画的な美によってだけでなく、映画的な美が彼らの作品で奉仕しているメッセージ性や、映画美と同時に存在する別の美によっても、観客の記憶に残るものになっている。
     彼らの作品よりも純粋なモンタージュ映画に近いアルタヴァスト・ペレシャンの作品や、リアリズム映画美学により忠実なあれこれの作家の作品は、おそらく、既に挙げた作家たちの映画より短命だろう。

     映画は批評家や作者に芸術として認識され始めた当初から、雑種的であった。1910年代半ばの優れたサイレント映画は演劇に多くを負っている。トーキーが実現してからは、音楽的構成への誘惑に逆らえなかった。

     私は別に、こうした映画史的な事実からではなく、単に自分の嗜好からであるが、“雑種的”映画の支持者である。だが、複数の構成原理の無原則な混在は好まない。構成原理を音楽に求めるのであれ、別の芸術に求めるのであれ、それらの原理を映画の表現手段に合わせて調整しなおすことが必要だとも考えている。
     言うまでもなく、その調整は機械的なものではなく、直観や感覚に基づく(つまり主観的な)取捨選択と変形を含んでいる。それらは、個々の作品の創造において一回的に行われるものだ。

     ともに雑種的であっても、商業映画と映画芸術の差が生じるとすれば、それは、そのような作業の一回性を作者が意識しているかどうかによる。 

    伝統の継承について

     以前、リトアニアの文化に関する映画を作った際に、同地の民族楽器“カンクレス”の演奏を撮影させてもらったことがある。演奏したのは民族芸能グループ“アタリア”のメンバー、ゲディミナス・ジリスさんである。
     この“カンクレス”という楽器は、もともとリトアニア人が家族の葬送のために作ったものであると、同国の考古学者ヴァイトケヴィチュス氏が説明してくれた。人が死ぬと森へ行って木を切り、この楽器を作ったのだそうだ。
    (『リトアニア 神々の黄昏』というこの短編映画はDVD化されているので、関心のある方は次のネットショップでご購入ください Alt-arts Shop http://www.alt-arts.com/alt-shop/detail-00000013.html)

     実はこのカンクレスは、ソ連時代にほとんど誰も弾く人や作る人がいなくなり、消滅しかかったのだという。だが、1970年代から若い世代が博物館の展示品を研究しながら、復興させたそうなのだ。現在では、“アタリア”のようなフォーク・グループの人々が演奏しており、現代的にアレンジされたり創作された歌の伴奏にもなっている。
    atalyja.jpg
     
     その後、私はアイヌ民族の文化に関する映画の取材で、“トンコリ”という楽器のことを知った。この楽器も一時は消滅しかかっていたのを、若い世代が復興させたそうである。この楽器も木製で、どことなくカンクレスを連想させる。

     他のドキュメンタリー映画作家の場合は知らないが、私自身は、編集という作業に非常に時間と神経を使う。長期間に渡って取材すれば“真実”が得られるとは思っていない。芸術の真実は素材の取捨選択と構成の厳密さからしか生まれないのだから。
     そういう訳で、当初の構想どおりに撮影できなかった場合(ドキュメンタリーではむしろそれが普通だと思うが)、構成原理が見えないまま素材撮影の後、何年か過ぎることもある。外部から発注された企画でもなければ、素材の中から正しい構成原理が見えてくるまでは、無理に編集を続けない方が良いと考えている。
     
     アイヌ文化に関する映画は、最近ようやく編集のめどが立ち、結果的に35分の短編になった。まだ変更の可能性はあるが、ほとんど完成したと言っていい。木彫家の床ヌブリ氏と、木版画家で“アイヌ・アート・プロジェクト”代表の結城幸司のインタヴューが中心であり、福本昌二氏のトンコリ演奏が間奏曲のように入る。
    阿寒在住の木彫家、床ヌブリ氏
    この映画『甦るカムイの夜明け』(仮題)では、芸術文化における伝統の継承という問題が提示されている。
    芸術文化においては創造と伝統の継承という、部分的には相反する二つの要素が存在している。それらが互いを否定しあうのではなく、止揚するところに、芸術創造の秘密があると、私は考えている。
    ヌブリ氏の「神々の詩」を見る結城氏
    結城氏の木版画「神々の囁き」

    映画館とコンサートホール

     東京の“単館”映画館がまたひとつ減った。恵比寿ガーデンシネマが閉館になったことを知ったのは、“名画座”である新文芸座のブログを読んだからだった。それほど、最近私は映画館というものに縁遠くなったのである。

     天命と自覚して映画をやり続けていると、必然的に非常に忙しくなり、多くの場合は同時に貧乏になる。それは映画産業のリスクの高さに加え、映画という芸術自体の存在形態がもはや存続の危機に瀕しているという、厳然たる事実の結果でもある。

     大スクリーンで、相も変わらず“ハリウッド・スタンダード”のカット割り、お決まりのいくつかのパターン、等などを見ることに、正直な多くの人々は飽きている。少なくとも、そのために1500円以上出すことを勿体ないと感じている。だが、これまで見たこともないような映画美や真実のイメージを見せてくれる映画作家はほとんどいない。いないのは、映画産業がそうした作家の存在を許さないからだ。

     セルゲイ・パラジャーノフやアンドレイ・タルコフスキー、アレクサンドル・ソクーロフが、全員、ソ連という国で、“雪解け”以降“停滞の時代”までにその作家的個性を確立したことを思い出そう。当時のソ連では、商業主義に多少は傾いていたとはいえ、映画は基本的に芸術として国家予算で製作されていた。党の文化関連機関に属する人々の中にさえ、その理念を額面どおり受け止めた人がいた。作家や観客は言うに及ばずである。
     そのような特殊な環境は、もう世界のどこにもない。だが、これら素晴らしい映画作家たちから影響を受けた映画作家や観客は、今でも生きているし活動している。第五世代の中国の監督たちが登場した後にも、それよりスケールは小さいが同じような嗜好の“継承”が起きた。ジャ・ジャンクーは、自分が初期のチェン・カイコーから影響を受けたとどこかで語っていたはずだ。
     フランスにおける、やはり特殊な文化政策が、ヌーヴェル・バーグ世代の作家たちに与えた機会のことも、忘れてはいけない。彼らの作品もまた、次世代に大いに影響を与えたのは周知のとおりだ。

     このように、現在の映画産業の多様性は、社会主義国やヨーロッパの一部の国で散発的に現れた、非商業主義的で本質的には非政治的な映画の動向、映画表現の革新に、実に多くのものを負っている。
     われわれは、それを、非政治的に、単に芸術に多様性をもたらした歴史的事実として認めなければならない時期に来ている。
               (以下略、全文は有料記事となります)
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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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