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    映画―文化と産業は運命共同体か?

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    映画文化―凋落と復活のシステム(序)

     私は東北地方太平洋沖地震が起きるほぼ1週間前の3月3日、自分が経営している配給会社のブログで次のように書いた。

     (……)アメリカ・カナダ地域における、一人平均映画館利用回数は、2010年度で4.1回だった。日本の4倍近いから多いように見えるが、実はこの10年間で徐々に減少している。2000年代の一時期、5回以上だったこともあるのだ。だが、それ以来、減少傾向はずっと続いている。
     この1年間で、アメリカのインディペンデント系と大手の映画製作会社の代表、ミラマックスとMGMが破産している。『アバター』も『第9地区』も、映画界全体の凋落をとどめることはできないようだ。しかも、アメリカの平均的な映画入場料は、日本円に直せば600円台なのである(MPAAの資料より。1ドル80円台で換算)。
     不況の影響というだけではない。映画はいよいよ、「大衆娯楽」として成立し難くなってきたのである。コストがかかりすぎるのがその最大の理由だ。その一方で、映画的な映像の創作は、民生用・セミプロ用のデジタル機材が急速に高性能化してきたため、事実上、ほとんど誰でもできるようになってきている。スターの出演、見栄えのするCG、大セットや風光明媚な場所でのロケ等をすべて諦め、映画の美学を追求すれば、映画作品は創作できる。
     劇場公開は宣伝費その他がかかるために無理な場合でも、国際映画祭へ出品ができるレベルの、低予算の短編・中編・長編ヴィデオ作品がそうした出品歴を品質保証として市場にあふれ、映画文化を刷新するという可能性はないだろうか。
     ところが、そうはいかないのだ。(以下略)

     “そうはいかない”理由としてその時私が挙げたのは、アメリカ企業に有利なブルーレイ市場への参入障壁の存在であった。だが、他にも理由はある。最大の問題は世界的に進行している映画観客の減少、とりわけ欧米で“アートハウス”に分類されているような映画を選んで見る観客の減少である。
     この“アートハウス”とは、もともとアメリカで1950年代に登場した、大手チェーンに属さず独自の上映プログラムを組む映画館のことを指した。そのレパートリーは、当時ヨーロッパの映画祭で評価された、フェデリコ・フェリーニやイングマール・ベルイマンといった映画作家達の作品、いわゆる“作家映画”が中心だった。現在、アメリカやイギリスのアマゾンで、或いはロシアの大手通販サイト“オゾン”で“アートハウス”に分類されている映像ソフトは、かつて“作家映画”と呼ばれていた名監督達の作品だけでなく、アジアや中東の新しい映画作品を含んでいる。必ずしも映画祭での受賞が必須ではない。あらゆる商品のジャンルがそうであるように、この“アートハウス”にも厳密な定義を与えることは不可能であり、既に述べたような発生と変容の歴史をたどることができるだけだ。
     日本で“単館”と呼ばれている映画館の上映レパートリーは、映像ソフトの製作・配給会社がリリースする“アートハウス”映像ソフトと、ほとんど重なり合っている。なぜなら、どちらも映画館での公開を一次使用、テレビ放映やソフト販売を二次使用とするような、劇場公開用の長編映画を中心としているからだ。例えサイレント時代の古典作品であっても、また日本未公開の最近作であっても、それらの映画は既にどこかで、なんらかの形で劇場公開されていることがほとんどである。そして、“アートハウス”映像ソフトの収録時間は、一般的には1時間より短いということはない。
     つまり、“アートハウス”商品の主力である諸作品は、リュミエール兄弟が1895年にグラン・カフェで初めて“興行”した短編映画でもなく、1920年代にフランス、ドイツ、ソ連で作られた数々の実験的な短編でもなく、映画が長編化して物語性を十全に展開できる長さになり大衆娯楽産業となってからの映画の伝統を継承している。今、危機に瀕しているのは、まさしくこのような映画のあり方なのである。既に述べたように、大衆娯楽としての劇場公開用長編映画のあり方は、観客が減少したことによって、コストがかかりすぎ、製作リスクが大きくなり過ぎたからなのだ。制作者も、配給業者も、減少を続ける熱心な映画ファンも、どうやらこの事実に気づかないまま、産業的に見れば無謀とも言えるような“伝統”の継承に参加し続けている。自ら“別の選択(alternative)”への道を閉ざしているのだ。
     かつては“作家映画”や“アートハウス”が別の選択であり、制作者や配給業者や観客や批評家がそれを選ぶことには、映画文化全体の活性化を促す働きがあった。それは映画が、映画館で見る以外にないものだったからである。現在では、劇場公開用長編劇映画を主なレパートリーとする“アートハウス”を選択することには、既存の、衰退しつつある映画を懐古しつついとおしむという意味しかない。映画は現在、別の場所で(個人の家で、ネット上で)まったく別の形で生き始めているからである。そこにこそ、“別の選択”を見出すべきではないだろうか?

     私は現在の長編劇映画のあり方を見て、それが早晩オペラと同じ運命をたどるのではないかという印象をぬぐいさることができない。19世紀のヨーロッパにおけるオペラは、王侯貴族だけでなく一般市民も鑑賞する商業演劇だった。ところが、現在では、国家や地方自治体による公的な支援なしには存在し得ないほど、商業的に成立し難いものになっている。勿論、公的な支援、国からの助成金によって一つの芸術ジャンルが存続することに対して、それが不自然だからいけないと言うつもりなどない。フランスやロシアでは今のところ、そのようにして映画を存続させようとしている。だが、それがいつまで続くか、誰にも予測することはできない。
     では、ハリウッド映画はどうだろうか? 劇場公開用長編劇映画の分野で世界の映画市場を制覇したのが、他でもないハリウッド映画である。スターシステムを持ち、膨大な制作費と宣伝費をかけた新作を全世界に売り、技術的なスタンダード(ドルビー・システム、アメリカン・ヴィスタ等)まで規定してしまうハリウッド映画は、他のどの国も商業的成果においてそれを凌駕できないという意味では勝者である。だが、映画を文化として考える場合、ハリウッド映画が他の国々に対して行っていることは、文化的な植民地化でしかない。他のどんな文化的領域が(諸芸術だけでなく文化産業でさえも)、ここまで一つの国の“スタンダード”によって規定され得るだろうか?
     
     私がこれまで述べてきたことは、映画という文化領域に現在起きている事態を分析し、その文化領域の中で闇雲に動くのではなく何らかの展望をもって行動するために、踏まえておくべき前提であろう。その上で更に、映画そのものを活性化させ、そこに創造的な力の場が再生することを願うのであれば、現在の映画文化のあり方を明確に、構成要素の相互作用する場として捉えなおすことが不可欠である。他でもない、私の映画文化に関する考察は、そのような再生・復活への願いに端を発しているのである。 

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    現代ロシア映画のプロデューサーと新人の映画①


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    セルゲイ・セリヤノフ氏は、『ロシアン・ブラザー』、『フリークスも人間も』、『モンゴル』等、90年代後半以降日本でも公開された劇映画作品をプロデュースしている。もともと“作家映画”の監督として出発した彼のインタヴューには、映画への愛と、動乱の90年代を生き延びて現在に至った彼の制作者としての才能とが、よく現れている。
     彼は2000年代以降、当ブログの連載『2000年代ロシア映画の新人達』で既に取り上げた、『ブーメル』、『頑固者』そして今週取り上げる『シュリテス』等、作家性の強い新人達のデビュー作をプロデュースしている他、既出の『モンゴル』や『ヤクザガール』のような娯楽性の強い作品も制作し、持ち前のバランス感覚を発揮している。

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    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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