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    ”毒をもって毒を制す”社会学的SFの系譜

     SFというジャンルも、映画と同様に従来のような形ではそろそろ耐用年数が切れかけているという気がしている。それは、このジャンルで最も優れた作品を量産してきたアメリカ的文明の破綻が見えてきたことと、無関係ではない。

     “従来のような形”というのは、「科学的」であろうとするハードSFを一つの極とし、未来世界や異世界や遠宇宙における波乱万丈のアクションを売りとする“エンターテイメント”を別の極とするような、かつて“空想科学小説”と和訳され“センス・オブ・ワンダー”が必須とされていた頃の形だ。
     いつだったか、私がまだテレビ番組の臨時スタッフをしていた頃に、全くSFファンでも何でもないどころか年に1冊も小説など読まないのではないかと思われる20代の若者から、「SFってサイエンス・ファンタジーの略じゃないんですか?」と聞かれたことがある(大方の日本人の認識はその程度であろうし、テレビの現場はそういう“大衆”的な嗜好に対して本能的に反応するような教養レベルしかない人々を酷使することで成立している)。だが、その若者に見られたような誤った認識ないし偏見は、SF映画やSF小説を大量に売ることによって存続してきたアメリカ文化産業における暗黙の前提でもあっただろう(その若者は恋人とディズニーランドに行くのが好きだといった)。勿論、それを模倣することで成長した日本の戦後文化産業も同様である。SFというジャンルは、文化産業の圧力によって、芸術面での成熟がかなりの程度までで阻まれるようになっていたのだ。
     映画及びテレビの世界では、それが文学よりも顕著に出た。ロジャー・コーマンのように開き直ってこのジャンルを生き残りのために利用した映画人もいれば、ジーン・ロッテンベリーやスタンリー・キューブリックのように多少は進化させようとした人もいたし、また“先人への敬意”を忘れずにそれらを統合した路線を進んでいるかに見えるJ.J.エイブラムスのような人もいるが、彼らは全員、“スペクタクル性”や“エンターテイメント性”を忘れなかった。そして結局のところ、観終わった後、読み終わった後には、“面白かった(或いは、怖かった、考えさせられた)が、所詮、作りものだ”ということで、鑑賞の1時間後には日常生活の中に埋没し、忘れられる運命にあった。

     ところが、そのような商業的な前提がもはや時代遅れになってきている、というのが私の考えなのだ。この変化はゆっくりと、“社会学的SF”とでも呼ぶべき系譜の作家達によって、おそらくは意識されずに引き起こされてきた。
     そのきっかけを作ったのが、P.K.ディックやスタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットといった作家だった。彼らの作品は既に1960年代初めには既に、SFというジャンルに忠実であることやその枠組み内に収めようとすることよりも、それを経済的或いは政治的な諸条件下で自分に許された最も自由な創作領域として利用し始めていた。
     当時は冷戦の真っただ中である。米ソによる地上、空中、海上での水爆実験が繰り返された後、短い「雪どけ」期が終わってキューバ危機、ベトナム戦争の激化、オイルショック、日本の公害問題等が目白押しの時代である。ロバート・ハインラインやアーサー・C・クラークの“ハードSF”が単なる理工系オタクの夢想にしか見えなくなり始めた時代だと言える。そんな時期に『2001年宇宙の旅』を作ったキューブリックは、やはり社会的意識が希薄だった。70年代に入るとアメリカのSF映画はもっと“現実的”になってゆく。ルーカスとスピルバーグが一気に逆行させるまでは。

     80年代以降のアメリカの映画・テレビ産業は、この2人が敷いた線路の上をひたすら走り続け、SF映画をついには全く現実感のないアクションとアトラクションの集積に変えてしまった。
     このようなアメリカ映像産業によるSFというジャンルの“搾取”を背景に見れば、ハードSFとか、1960年代のニューウェ―ヴとか、ましてやグレッグ・イーガン作品などは、世界のSFファン、或いは小説の読者全体から見れば、極めてマイナーなサブジャンルでしかないだろう。だが、そこには強固なファン層に加え、かつて“インテリ”と呼ばれた批評家や大学人などが徐々に加わっている。今や、彼らが支持する諸作品をかつての“SF”というジャンルと同じものと見なすことが難しいところにまできた。私のように、専らそうした一部のSFしか読まない読者もいると思う。そのような作家や批評家や読者にとって、SFはもはや一つのジャンルというよりも、創作と思索のための口実でしかない。

     現在の日本では、それがかなり顕著に、おそらくはアメリカ以上に顕著に起きている。だが、ディックやイーガンの諸作品に潜在したような、ジャンルの内部破壊に至る社会的意識(想像力ではなく)を備えたSF作家は、おそらく、夭折した伊藤計劃以外にはいなかった。『虐殺器官』が傑作なのは、それがアメリカ的な、“サイエンス・ファンタジー”、“エンターテイメント”的な、ルーカス=スピルバーグ以降のハリウッド映画によって先祖がえりさせられたSFジャンルの流れを、多分にイーガンや同時代のドキュメンタリー(例えば『ダーウィンの悪夢』)を含む映画作品の影響を受けながら、完全に断ち切った点にある。英語圏の作家としての自らの特権を明らかに意識し、ある作品ではそれを半ば公然と表現していいたイーガンと違い、伊藤のこの作品には、人類の倫理性回復に向けた、性急だが純粋な意志が見える。そのような作者の意識と意志が、近代心理主義ドラマ的な観点から見た欠点(あくまでも行動の動機を論理的に説明できると考える近代リアリズム的観点から見た場合の相対的欠点)にもかかわらず、この作品に、ジャンルの破壊力を内包させている。

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     ジャンルの惰性的な流れ断ち切るためには、そのジャンルのルールにまずは乗る必要があっただろう。だから『虐殺器官』の前半は何ともアメリカ的な臭いがするし、“エンターテイメント”的な部分もなくはないし、ハードな現実世界に主人公の夢を時々挿入する語りは映画的でもある。それらは全て、ジャンルの規範を利用しつつ最終的にそのジャンルから離脱するというだけでなく、“毒をもって毒を制す”ための技巧であり手法でもあった。この場合の“毒”とは、ディックやヴォネガットも描いてきた、アメリカの消費・経済至上主義的な文明の狂気である。そして、この狂気の文明を当然の前提条件として大量生産され流通していたのが、他でもないSFという“大衆的”ジャンルの玉石混淆の作品群である。伊藤計劃のやったことは、作者がどこまで意識したかどうかは分からないが、単なるSFの枠を借りた社会的な諸問題の提示とドラマ化ではなく、このジャンルの主流(アメリカ派、アングロサクソン的ビジネス文明におけるその潮流)を、そこで培われた手法やスタイルや技法を借りつつ、“虐殺”することだったように見える。勿論、先行する翻訳物のSFやそれに影響された日本製アニメやゲームから、彼がそれらを借りたことは言うまでもない。

     長編第一作でそのような境地に至った作家が、長いキャリアを持てるはずはない。“プーシキンは決闘で死んだのではない。書くべき物を書いてしまったから死んだのだ”とはソクーロフの言だが、創作家はなぜか、その人以外には作れないというだけでなく、既存の社会的規範に対する破壊的なアピールをも持つような傑作を創造した後には、長い弾圧を経たり病気になったりして、本人が構想しているほど多くの作品は残せないものだ。あるジャンルの総括と破壊は、必然的にジャンルの空白を生む。その一瞬の真空を埋めようとする努力は、創作家を社会で容認されている規範との対立と、不可能な課題への挑戦に導く。そうして創作家は斃れるのだ。

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     世代間所得格差の拡大や貧富の差は90年代以降、全く改善されることはなく、“冷戦が終わっても世界は良い方向に向かっていない”という認識はほとんど常識のようにさえなっている。そこに一昨年の福島第一原発事故が起きたのだから、いまだに経済が回復すればすべて丸く収まると考えている人間は、よほど無教養だと言わねばならない。我々が空気や水や食料を通じて被曝しているのは現実であるし、首都圏が深刻な汚染にさらされたことも、放射性セシウム137の半減期が30年もあることも現実である。
     癌や心臓病による壮年の急死や、若年者の慢性疾患の増加が起きるのも確実である。前にも述べたが、ウクライナでは今20%しか健康な子供がいないのだ。私にとってはロシア語は第二の母国語同然であり、ネット上の記事もヴィデオ映像も映画も、時間と意志さえあればいつでも参照できる。私にはソ連時代にウクライナから避難した映画人の知り合いもいる。ロシア製ガイガーカウンターは常時作動しており、ヨウ素剤が自宅にある。それでも、自分が無知だったが故に既に被曝した事実から目をそらす気はさらさらない。我々は黒澤明ほど長く創作はできないし、ユーリィ・ロトマンほど長期間に渡って芸術の研究もできないのだ。我々の次の世代も、その次の世代も、である。
     
     P.K.ディックは家宅捜査を受けたことがある。反体制的だとみなされたからだ。
     伊藤計劃が3.11まで生きていたら、どんな態度をとっただろうか。

     問題は文明のあり方なのであって、もっとはっきり言えば原発を100基以上も持ち、90年代以降はまるで世界警察のような顔をしながら自分の利権だけを守ってきたアメリカ社会をモデルとする文明と、それに寄生する形でしか発展してこなかった、文化産業のあり方なのだ。勿論、後者にはSF市場も含まれている。
     もはや、この問題を避けて通ることはできないし、私はそのことを頭の片隅にでも置かずに創られたSF小説やSF映画など、積極的に読んだり見たりする気はない。時間が惜しいからである。3.11以前に創られた作品は仕方がない。我々は皆、放射能や原子力に関しては驚くほど無知だったのだ。サラエボのテロで核兵器が使用されたりインドとパキスタンが核戦争を起こしたりといった設定があるからといって、過去の作品を批判するつもりはない。

     

      
      
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    tag : SF

    世代間格差と日本の文化政策・文化水準

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    頑迷な保守主義が文化を停滞させる

     論理的思考の結果よりもその場の空気を読むことを重視し、どんな場面においても年長者への敬意と自分よりも若い世代への見せかけの鷹揚さを示すことを美徳とするこの日本の文化的伝統は、この国が始まって以来とも言える危機的な現状にあっては、全くマイナスにしか作用していない。

     だから、多くの人々の反感を怖れずに言えば、この文化的伝統はしばらく忘れるべきである。この国を、政治的にというよりは文化的に存続させるために、である。

     このように述べる私が今問題にしているのは、脱原発議論や国民の大半がまだ自覚症状のない内部被曝のことだけではない(それらは数年以内に“事実”の重みによって能天気な国民にショックを与えると思っているが)。

     人間は年をとるにつれて、人生経験は増すが思考能力は衰える。60代、70代にもなれば、天才でもない限りは40代、50代の時と論理性において同じレベルの仕事をすることはできない。それを自覚してかせずにか、高齢の創作家や研究者の多くがその年齢になると伝統や経験論に頼り始める。鋭い理論の切れ味と簡潔でテンポのよい語り口に変わって、何か達観したかのような世界観や、彼らが一生を捧げた芸術ジャンル、所属する民族或いは国の文化的伝統を一身に背負ったかのような博覧強記の披歴が、彼らの作品に目立ち始める。
     それは、黒澤明のような芸術的天才、或いはピエール・ブルデューやユーリィ・ロトマンのような倫理観ないし職業意識の強い研究者の場合は「ライフワーク」の完成に導くが、凡庸な才能しかない創作家や虚栄心ばかり強い学者・批評家の場合は、鼻もちならない冗長な美文調や、全く無意味で能天気な形式の遊戯に導く。若者や中年世代にとって有害無益な作品や著述が、彼らの晩年にその経歴を汚すことになるのだ。

     この国に根を張っている頑迷な保守主義は、芸術的天才や誠実な専門家と単なる権威主義者に堕した「実績ある」俗物との区別を難しくしている。芸術的天才は、時に愚かでナイーヴに見えるような作品を創造するが、そのような作品は、10年、20年を経るうちに、実は愚かでもナイーヴでもないことが分かる。確か、タルコフスキーは詩には幾分愚かなところがあると書いていた。それが彼自身の言葉かどうか、今私には確かめる時間的余裕がないが、例えば彼の『ストーカー』の制作をめぐる顛末や『サクリファイス』の冗長にも思えるリズム、それにもかかわらず天才的であり簡潔であるこれらの作品の構成を想起すれば、彼は自分の詩人的な特質をよく理解していたのだと分かる。
     だが、パラジャーノフにしろ、黒澤明にしろ、同じことが言えるではないか。40になるまでは体制に迎合したかのような凡作しか作れなかったパラジャーノフや、公開当時には非常に説教臭く愚かにさえ見えたが現在では預言的であったことが分かる『夢』の作者は、まぎれもなく、映画の詩人だったのである。

     芸術的天才の多くが、というよりも私の個人的な意見ではそのほとんど全員が、実は詩的な作品しか創らなかったというのは偶然ではないだろう。エミール・ゾラのような一見「散文的」な小説家にさえ、詩的なひらめきがあった。頑迷な保守主義者たちが決して理解できないのが、芸術作品の詩的な側面である。

     一方、批評や人文諸学の研究で彼らが理解できないものは、研究者の倫理的なポジションである。人文諸学における一流の研究者は、決して文化に対する消費的な態度を奨励したり、それを先導したりしない。例えば、ミハイル・ヤンポリスキーがソクーロフの『痛ましき無関心』を論じた文章を思い出してもいいし(私の訳した『ソクーロフ』は絶版状態だが)、フランスの批評的伝統が好きな人はロラン・バルトをよく読みなおしてみてもいい。
     高価な彼らの本を読むような経済的余裕がない若い世代には、私の著書『タルコフスキーとその時代』をお薦めする。誤解を避けるために付け加えれば、私自身が一流だと言いたいわけではない。芸術の研究において権威主義の誘惑に対して抵抗し続けた私の本は全て、ソフトカバーの体裁をとることで意図的に廉価にしてあるのだ。

     長大さやディテールへの過剰なこだわり、凝った意匠への固執は、今の時代にそぐわないだけでなく、本質を見失わせる。私はこれまで一度も、本の体裁やカバーに惑わされてその内容への自分の判断を曇らせたことはない。例えば、薄い岩波の文庫本でしか出ていないベラ・バラ―ジュの『視覚的人間』やそれを意識して90年代の困難な時期のロシアで少部数出版されたヤンポリスキーの『可視的世界』、或いは私が知る限りロトマンの著作集には入っていない貧弱な体裁の雑誌掲載論文「壊れゆく世界のオーケストラ・リハーサル」、1970年代の古本でしか読めないヤン・ムカジョフスキーの『チェコ構造美学論集』等は、近年刊行された洒落た体裁の、或いは時流に乗った官製文化への迎合論文集などより、私にとって100倍以上の価値を持っている。
     同じことはもちろん、芸術作品に関しても言える。モノラル音声、スタンダード画面の1980年以前の古典的な映画作品は、稀に良く出来てはいても後にほとんど何も残らない最近のハリウッド製ジャンル映画よりも、やはり貴重である。それらの古典作品のうちパブリックドメインになっている作品は、500円の廉価版DVDで見てさえ、やはり普遍性を持っている。だが、古典作品は、古典として誰か権威者から認められたから価値があるのではない。そう考えるのは文化的な保守主義者である。誰かが何かを語ったからではなく、作品自体に普遍的価値があったからこそ、古典として残ったのである。

     創作家や研究者は、自分自身が大家や権威として承認されることを望むのではなく、その前に普遍的価値をもつ作品を後世に残すことを、まず考えなければならない。当然のことだが、天職としての創作家や研究者には、文化の継承と発展に貢献するという使命がある。そして、読者や観客は、真摯に創られた作品や書かれた著作を、そのようなものとして、いかなる権威主義のフィルターも通さずに、私心なく受け止める必要がある。

     ある民族や国の文化的水準は、そのような人々がどれだけいるかによって決まる。そして文化政策の役割は、そのような環境を整えるために、文化的な雑草(俗物的権威主義、無意味な伝統の墨守、形骸化した研究の方法論)だけが猛威を振るわないように、幾つかのパラメーターを調整することにある(例えば、複数の研究機関も世代を横断するような研究誌発行への、過剰にならない程度の助成等)。
     
     頑迷な文化的保守主義は何も生み出さない。また、政治色の強すぎる文化的な革新への期待も、何も生み出さない。芸術文化の根底にあるのは、無私の、宗教的でさえある奉仕である。そして、ほとんどの正常な人間は、何か自分を越えた普遍的な価値や存在に、奉仕したいという願望をもっている。芸術はその願望をイメージによって示し、芸術の研究はそのイメージがいかに巧妙に構成され、社会の意味論的な更新にさえ貢献しているかということを、筋道だてて教えてくれるのである。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    映画の“現実”と“理念”の間には深淵が存在する

     映画の現実と私が言うのは、もはや退行することなしに衰退を免れることが難しくなった映画産業と、娯楽として消費される類型的な(ハリウッド・スタンダード等と呼ばれる)映画への大衆のナイーヴな信頼との、救いの無さのことである。

     それらに代表される映画の“現実”になぜ救いがないかと言えば、①あまりにも幼稚になったために、もはや社会的現実に影響を与えることが不可能になっている。②美学的に見た場合、つまり芸術的成果を見た場合、1980年代までに達成されているものを継承も発展もできないほど、既に退行してしまっている。③少しでも産業の存続と文化的水準の維持とを両立させようとすれば、公的な助成という官製文化への導火線に着火せざるを得なくなっている、からである。

     このうち、①については、ジョージ・ルーカスの旧『スター・ウォーズ』三部作と『ファントム・メナス』に始まる新三部作との比較、或いはリドリー・スコットの『エイリアン』や『ブレードランナー』と『プロメテウス』との比較から、誰でも気づくことができよう。1970年代末から80年代前半までのハリウッド製娯楽大作には、まだドラマがあり、人間がいた。だが、今あるのは、アトラクションやシュミレーションやシュミラークル、要するにコケオドシの見せ物小屋とグロテスクな機械人形だけである。それは日本のアニメの場合も同じである。テレビアニメに古典映画的な演出を導入した冨野由悠季でさえ、『聖戦士ダンバイン』から『リーンの翼』への落差は異様に大きい。私は後者を最近初めて見たのだが、人間ドラマとしての信憑性の無さや安易な民族主義的意匠には唖然とした。

     そして、日本の映画政策の中途半端さは、他のあらゆる国と比較しても無意味な結果を生んでいる。例えば、既にこのブログでしかるべく批判した、2000年代の駄作邦画のようなものを、である。『かもめ食堂』が国の助成を受けたかどうかが問題なのではなく、あのような半製品に対して整然と批判もしない観客や批評家達しかいない状況をもたらした、或いはそうなるまでこの国の映画文化をミスリードした、その責任が問題なのだ。 

     だが、私はそれほどこの国の政治にも経済界にも、更には国民の大半にも、期待していない。俗物は俗物的な世界しか作れないし、自分のコンプレックスから高貴なものを破壊し、汚すことしかできないからである。福島第一原発事故の後、まだ2年も経たぬうちから、原発を推進すると断言する新政権に経済の回復だけを期待するような人々を、俗物、という以外の言葉でどう呼べばよいのだろうか?
     
     私がもっとも哀しむべきことだと思うのは、映画というメディアが持っている美学的な可能性が、多くの創作者と優れた研究者や批評家の、無私の貢献にもかかわらず、ことごとくつぶされてきたこと、そして既に劇場公開用映画では不可能になっていることだ。
     例えば、アルタヴァスト・ペレシャンの「遠隔のモンタージュ」は、劇映画においてはほとんど応用されることなく、忘れられている(ロシアの批評家はかつてソクーロフのペレストロイカ時代の映画についてその応用を指摘したが)。だから忘れないうちにあえて書いておくが、私の最初のドキュメンタリー短編『調和の花』にはちゃんとそれがあるのだ。
     或いは、黒澤明の映画美学的な面における最高の到達点である『影武者』と『乱』もそうだ。これらに関しては、既にこのブログでも触れたとおり、私が発表しなければ日本語で永久に読まれることのない重要なロシア語論文が存在する。だが、80年代までのように、アングロサクソンの研究者達に何か新しい発見を期待するのは無意味である。黒澤明は、そして日本の他の古典的映画作家達も、もはや彼らにとっては「コレクション」の対象でしかない。だが日本の映画界に、彼の発見の継承や展開を望むのは更に無意味なことである。

     フェリーニの後期作品、パラジャーノフの『ざくろの色』以降の作品、それにダルデンヌ兄弟の最近作にさえ、かつての映画黄金時代ならば、何らかの形で商業映画にも応用されたであろうような美学的発見がある。だが、どうやら創作家達は自分の天才性を過信して、或いは製作の過酷な現実に押しつぶされて、分析や探究を継続していない。もちろん、エイゼンシュテインやタルコフスキーのような理論と創作の連動は、創作家自身の寿命を縮めるだけでなく、人間関係にも悪影響を及ぼし得る。当時から、政界や経済界や観客は、誰も“難しい話”を聞きたがらなかったからだ。そして映画人の多くはそうした俗物的な傾向に迎合してきた。だが、かつては映画学も映画批評も、現在ほど懐古的でもなければ社会評論的でもなく、映画美学的な課題を自らに課していた。だから何か新しい現象が完全に無視されることはなかったし、しかるべく緻密に分析されないこともなかった。例えば、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』は、少なくとも1990年代初頭までにソ連の記号学者ユーリィ・ロトマンによって実にエレガントかつアカデミックに分析されていた。そのロトマンも今はない。

     今や映画人は、自分の美学的な発見すら認知してもらえないようになっているのかもしれない。芸術的教養も重要だと言えば、ヴァーグナーのオペラやイタリア・オペラを原語も一切分からぬのに聴くような成り上がり者の中高年がいるかと思えば、成長を完全に拒んでアニメしか見ない、漫画しか読まないような若者も、この国にはいる。
     芸術の創造やその鑑賞が、基本的には日常的生活の昇華であり、或いは儀式であり、時にはその両者でもあることを、彼らは永久に知ることはないだろう。彼らは、文化における最も重要なものを取り違え続けて一生を終えるのだ。
     
     そんなものに関わっている暇があればビジネス・スキルを磨く方がいい、と考えている者はもちろん、俗物以下である。彼らは、一生、おそらく人生について重要な芸術以外のことも、何も学ぶことはない。
     
    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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