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    映像メディアの地政学的読解

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    捏造される“反体制派”

     もう1年以上前になるが、ロシアのフェミニスト・パフォーマンス集団(“音楽家”や“アーティスト”と呼ぶにはあまりにも稚拙なので) "Pussy Riot"のメンバー2人が、救世主ハリストス大聖堂内の至聖所前でフリーガン的パフォーマンスを行い、逮捕されるという事件があった。マスクで顔を隠し季節外れのカラフルな軽装をした彼女達のパフォーマンスは勿論、常識的に考えて“場所柄を弁えない”ものであるが、その拘留期間の長さや「信者達の感情への侮辱」という罪状に対しては国内でも批判があった。次の動画は、事件から1ヵ月後に放映された討論番組である。

     出演者のうち、分割画面の左手に登場する中年男性は、ジャーナリストで『煉獄』等の監督でもあるアレクサンドル・ネヴゾ―ロフ(無神論者)、中央の女性が司会者、右画面に登場する男性達のうち2人はロシア正教の関係者、胸に十字架をかけている女性は90年代初めに人道主義的な映画『君を信じている』で評価された監督・女優のエレーナ・ツィプラコワである。
     
     ロシア語を解しない読者でも、この動画を何分か見ていれば "Pussy Riot"による上記大聖堂での行動とそれに続くメンバー逮捕の、社会に対する影響力の大きさは推察できる。問題の逮捕直前のパフォーマンスでプーチン政権を批判した歌を歌っていたことから、オノ・ヨーコら海外のアーティストの多くが彼女達に共感を示した。おそらく、プーチンという強権的な指導者への批判が、国内の“原理主義的”聖職者達の力を利用した政府によって沈黙させられた、という解釈がなされたのであろう。だが、問題はそれほど単純ではない。
     
     彼女達のパフォーマンスはそれ以前から、公共の場所で事前の許可を得ずに行われたものだった。ネット上で現在見ることのできる映像を観ても、有名なペテルブルクの跳ね橋に巨大な男性器の落書きをして橋が上がるとそれが公衆の面前に晒されるようにしたり、歩行者のいる道路の上方で消化器を噴射したり、常識的に考えて十分に違法な行動を続けていたのである。その上、救世主ハリストス大聖堂は、ロシアにおける正教復活のシンボルとも言える最大級の聖堂であるだけでなく、スターリン時代の30年代に完全に破壊されていたのを経済危機の90年代を通じて復元したという過去を持つ建物でもある。同様のことが日本で起きたとしたら、逮捕・裁判は行われないだろうか? しかも、東欧やロシアはいまだに西欧よりもキリスト教が生活に根付いている社会である。

     そのような文脈を踏まえた上で“Pussy Riot”のパフォーマンスやメンバー逮捕後の世論の分裂について考えると、若い人々が政治的意識ゆえに起こした自発的な行動とそれへの処罰というにはあまりにも不自然さが目立つように思われる。なぜなら、モスクワで大学教育まで受けている彼女達は、反プーチン的な政治運動を行うとしても、もっと一般市民の共感を得るやり方を思いつけないはずはないからだ。実際、自主映画監督のセルゲイ・ロバンなどは、自分達の芸能集団を組織して社会風刺の利いた低予算映画を作り、上映・ソフト化にこぎつけただけでなく、2作目はモスクワ映画祭で受賞までしている。
     宗教界と政府の癒着があると主張したいのなら、ネット上で自由に意見を発表しても法的に罰されることはない。「愛国者法」のあるアメリカ等よりも、今はロシアのマスコミもネットも遥かに自由なのである。ロシアの地方を無法地帯のように(必要以上に)暗く描いたセルゲイ・ロズニッツァの映画『私の幸福』でさえ見ることができるし、政府への不満や反プーチン的な発言はネット上に無数にある。しかし、プーチンは理想的指導者ではないが今のロシアに彼の代わりになれる政治家がいないという意見も、少なくはない。
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    “エリートの叛逆”?

     最近、当ブログを以前よりも頻繁に更新するようになったのは、日本と世界の状況がいよいよ危機と混乱の様相を深めていることへの、私なりの対応である。幸いなことに私は、誰にも何の気がねもなく、自分の発見した信憑性のある情報をほとんどリアルタイムに同胞国民と共有できる立場にいる。それゆえ、思索とリサーチを繰り返し、その成果をある程度まとまりのある形で国民に提示することは、私のような経歴と技能を持つ人間の義務だと思う。

     既存の制度としての学問や諸芸術は、現在の世界で進行中の経済危機や文化的な矛盾を目にして、ただ臆病に「記述」しつつ傍観する以外にないであろうことは、はっきりしている。何故なら、それらは過去1世紀半ほどの間に形成された“芸術―文化システム”、及び“経済―政治システム”を基盤にしてしか有効に機能し得ないのだが、このうち前者は後者に少なからず依存しており、後者は既に事実上全ての先進国で破綻し始めているからである。

     例えば、フランスでは既に、市民に対してテレビ税、電話税など、使わなくても“持っているだけ”で課される税金があり、その他の税も合わせると平均的な市民は貯金をすることができない。半数以上の住民が年度末に住民税を払う余裕がなく小額のローンを組む地方都市があるかと思えば、水道料金が高すぎるために同じ水道水を複数回、別の目的に使う人も多いという。以上は、ロシア人と結婚してロシアへの移住を決心している男性のインタヴューの中で語られている現状である。フランスと言えばいまだに「文化大国」というイメージを持っている方も多いと思うが、それがフランスの市民生活の現実なのだ。(以下の動画を参照。ロシア語)。

     まだ若く、普通以上に能力もありそうな市民が生活の苦しさゆえに海外への脱出を考えるような国に、一体、どんな「芸術文化」があるだろうか?そして、現在フランス市民に最も人気のある映画はアートハウス映画ではなく、『ミッション・クレオパトラ』のような箸にも棒にもかからないコメディーである一方で、アートハウス映画の方はなぜか『アーティスト』のように全編、英語字幕が入っていたりするのだ。「貧すれば鈍す」である。

     そもそも、日本国民の多くがいつまでも40年も50年も昔の“フランス映画”や“ハリウッド映画”のイメージに引きずられているという事態に対する責任の大半は、大学人やマスコミにある。現在“公認”されている芸術や学問は、その“公認”を大学の講座から受け取り、疑うことを知らないマスメディアによって再承認されてきた。だが、少し冷静に考えれば分かることだが、それらの“公認”と“再承認”のプロセスが「伝統」として継承されるかどうかは、国家財政の健全さ及び国民の生活水準にかかっている。何故なら、ほとんどの大学は国からの助成金なしでは経営が成立せず、マスメディアの方は中産階級の懐具合が極端に悪くなれば国民への影響力を失うからである。双方とも、全ての先進国で足元が崩れつつあるのは周知の通りである。そして日本の場合は更に、福島第一原発事故をめぐる御用学者と大本営発表メディアの“活躍”によって、両者の信用が地に落ちてしまっている。

     ある文化的制度の枠内におけるこのような“公認”や“再承認”のプロセスが公平無私なものでは到底あり得ないことは、庶民出身のフランス人社会学者ピエール・ブルデューが『芸術の規則』その他の著書で明確に示した通りである。分かりやすく言えば、これらのプロセスには、文化的エリートを自認する人々の生存権と権力構造における地位という“利権”が付きまとっており、マスコミは彼らの権威を借りることで自らの言説の無根拠性を糊塗しつつ、自らの“権威”の代用とすることが少なくない。
     更に、この“公認”と“再承認”のプロセスが繰り返された挙げ句、経済的リスクのほとんどまったくない「法人」格の利権集団(日本では特殊法人という形をとることが多い)の癌的な増殖をもたらすのである。これら利権集団の職員は関連省庁から“天下り”形式で任命され、彼らの給料として国民の税金が大量に浪費されることになる。

     フランス産オードブルはこの程度にして、アメリカ産遺伝子組換メインディッシュに移ろう。
     
     前回、アメリカ中産階級の没落とドキュメンタリー映画作家達によるそれへの反応について書いた。今はTPP問題の影響もあって以前ほどではないと思うか、日本人の多くはハリウッド映画の“大衆性”や豪華な作りを評価しつつ、「長いものには(とりあえず)巻かれる」「難しいことは考えない」という習慣から、アメリカという国を経済的・軍事的な超大国として漠然とイメージする一方で、その国民については少し“英会話”でも学べばコミュニケーションは容易だと考えていたのではないだろうか。

     日本の大衆がアメリカとその国民に対して抱くイメージは、ハリウッド映画やその他アメリカを本拠とする多国籍企業の商品に大いに影響されている。日本に進出しているアメリカの文化産業や外食産業は、どれも娯楽性と大衆性を売り物にしている。大作ハリウッド映画の登場人物達は、感情表現が豊かで、共感能力も高いように見える。現代ドラマは“家族”を中心に構成されていることが多い。『ダークナイト』のジョーカーのごとき孤独かつ異常なキャラクターは、ホラー映画やスリラー、犯罪映画の悪役としてしか登場しない。社会派ドラマも作られるが、ミハイル・ハネケ作品のように登場人物達全てに対して距離を置いた描き方はしない。つまり、ハリウッド映画の登場人物達は基本的に「不可解」ではなく、その運命も大抵は“不条理”ではなく、観客の自然な共感を呼ぶように設定され描写されている。彼らが徹底的に飢えたり、致命的な傷を負ったまま彷徨ったりということは、ほとんどない(シェークスピアの悲劇をハリウッドはほとんど全く映像化していない)。

     要するにそこで描かれているのは、少し前までアメリカ社会で圧倒的多数を占めていた中産階級の人々が当然そうあるべきと考えていた、誠実な個人の努力が正当に報われる国としての、アメリカのイメージである。アメリカ映画でそのイメージを覆してきたのは、ごく少数の作家達、しかもその多くはヨーロッパやアジアからの移民やイギリス出身の監督達だった。

     誠実に努力すれば報われる社会、“成功”にはほとんど必ず物質的な富が伴う社会、民意によって“正義”が認められ“不正義”が裁かれる社会。それは確かに、大半の人間にとって最も理想的な社会であるかもしれない。かつてのアメリカ社会には少なくとも、そのようなイメージを維持できるだけの経済的な裏付けはあった。次の動画は、マサチューセッツ大学の経済学教授リチャード・D.ウォルフのThe New Schoolにおける特別講演である。同大学の国際関係学科がYoutubeに2010年10月20日にアップロードしたもので、主なテーマは経済危機に対する政府の金融緩和政策に効果がないということである。

     彼はここで、前回私が書いたことを裏書きしている。つまり、アメリカン・ドリームに涵養された米国人の消費主義的なメンタリティーは、1970年代までの現実(毎年上昇する給与、雇用市場の不断の拡大)にはふさわしかったが、経済成長が滞って金融業界が一般消費者向けにクレジットカードを出すようになると、中産階級の精神的な足枷となった。つまり、彼らは正常と見なすような生活の水準を維持するためにカードローンや住宅ローンを使い、その結果、自らを経済的な袋小路に追い込んでいったのである。

     だが、かつて普通であった中産階級の生活水準の維持が困難になっているのは、何もアメリカに限ったことではない。アメリカの消費者による需要は世界全体の40%を占めると言われ、第二次大戦後に青春時代を過ごした世代は日本もヨーロッパ諸国も、更には東欧やソ連の人々さえ、アメリカ的な中産階級の生活スタイルに影響されてきた。そのことは、1950年代中頃の日本映画に描かれた庶民の生活と60年代以降のそれを比較してみれば分かるであろう。ロシア映画に関心のある方は、エリダル・リャザーノフの70年代の作品(『運命の皮肉』か『オフィス・ロマンス』)を見れば確認できる。
     ある意味で、近代の“資本主義”とは中産階級の消費活動の拡大に依存しつつ発展してきたとも言えるのであり、アメリカがその最先端を走っていた以上、日本ではあまり知られていない上記のような資本主義の機能不全症状を最初に経験したのが同国であったのも、当然である。だが、冒頭に例として挙げたフランスのように、現在ヨーロッパも、基本的には同様の問題を抱えている。国民を税金漬けにして社会保障を削減しなければ維持できないフランスの国家財政の問題は、国民が自分で自分を借金漬けにしているアメリカ中産階級の問題と、本質的には同じ原因によるものだ。それはすなわち、快適さ、利便性、安全性、豊かさを追究して規格化されてきた、先進国中産階級の消費生活への“根拠なき憧れ”である。
     
     現在、世界の“エリート層”は、この大量の中産階級の切り捨てを始めた。下の動画は、ここで以前も紹介したロシアの歴史学者アンドレイ・フールソフが、ロシア正教系の番組“スパス”に出演した際の録画である。ここで女性司会者とフールソフは、オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の叛逆』に触れながら、今「エリートの叛逆」が始まっていると述べている。彼らの言う現代の「エリート」とは要するに世界のグランド・デザインを決める“権力者”達のことである。フールソフによれば、彼ら「エリート」集団はグループ数としては12,3あるそうだ。

     ここまではっきりと危機の本質に切り込める情報と知性を備えた学者がいないことが、日本の不幸である。ロシアにはまだ肥沃で未開拓なシベリアや、豊富な地下資源や、高度な教育の伝統があり、時に過激になりつつつも基本的には正しい愛国心をもった知識人という、危機の時代にふさわしい人材がいる。アメリカの場合は、もう少し悲喜劇的である。何しろ、超大国でありビジネス文化の伝統があると思われていたにもかかわらず、実際には国民の多くに基本的な経済観念さえ欠けていたのだ。下の動画はリチャード・ウォルフが最近、海外の学生の前で講演したものであり、子供っぽいほどのオーバーアクションと自虐的な言説の組み合わせが楽しい。アメリカの大学教育の荒廃について、財政的な面も含めて具体的に語っているので、興味のある方はこれを本記事のデザートにして頂きたい。

    テーマ : 政治・経済・時事問題
    ジャンル : 政治・経済

    アメリカ中産階級の崩壊とドキュメンタリー映画の動向

     以前このブログで、「インターネット動画は今後「映画」の主流になるのか」という記事を書いた際に、私はアメリカの中産階級が崩壊しつつあることを書いた。その文章を一部、ここに引用する。

     “国民のほとんどが住宅ローンや“アメリカンドリーム”の構成要素たる物質的な“豊かさ”を維持するためのクレジットカードによる日常的浪費によって、稼ぐより多く消費する悪循環に陥っている。或いは、その結果として破綻し、貧困層に転落している。ウォール街の仕掛人たる金融資本家達だけが、その“借金経済”の恩恵を受けてきたのが、過去30年間のアメリカである”
     
     住宅ローンに関しては、低所得者向けの「サブプライムローン」関連金融商品(詐欺商品)の暴落によるアメリカの金融危機、それに連動する世界同時不況が現在も進行中なので説明不要だろう。一方、“クレジットカードによる日常的浪費”に関しては日本では全く問題とされていないが、私はロシアの経済学者ハージンの言説によってその深刻さを知った。ハージンはロシアで最も権威ある経済学者・コンサルタントである。それにしても、アメリカの一般市民はなぜ、稼ぐよりも多く借りる悪循環に陥ってしまったのだろうか?
     日本人の多く(特に経済学を専攻した人々)が無批判に信じ込んできたアメリカ経済と市民の生活水準の高さは、アメリカ人自身の過大評価によるところが大きい。“アメリカン・ドリーム”が実際には既に終焉を迎えた後でも、中産階級は借金を重ねることによってその幻影を維持し、彼らの理想とする生活―世界で最も浪費的な消費生活―を続けようとした。そのため、80年以降、共働きの家庭が増えてきたにもかかわらず、平均的家庭の預金額は減少し続け、足りない場合にはカードに頼ることになったのだ。一方、アメリカ政府はカード会社には無利子で融資し、カード会社は不況になると消費者への貸付利子を上げている。
     こうしたカード会社と政府の癒着は、下の動画(ニュース)で、近年上院議員となった破産法の専門家エリザベス・ウォレンが批判している通りである。


     “アメリカン・ドリーム”は、誰でも目標に向かって努力すれば成功できる、その機会は市民全てに平等に与えられているというものだった。しかし、ハリウッド映画やテレビが浪費的な消費生活を“豊かさ”として市民の無意識に繰り返し刷り込んだことによって、「成功」は、いつしか個人的理想の達成の範囲を超えて、ほとんど物質的・経済的富の獲得と同義になってしまった。
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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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