スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

    映画芸術古典時代の終わり

     遠いバブル時代の1980年代日本で、1930年代から50年代にかけてのハリウッド映画や同時代の日本映画を、あたかも映画の教科書のごとく崇める風潮があった。その最も馬鹿げたクライマックスは、土地バブル絶頂期の小津安二郎崇拝である。

     私はその頃まだ大学生だったが、同時代の素晴らしい映画芸術の精華を無視したシネフィル的な言説には、正直言って嫌悪感を通り越して吐き気がしていた。なぜなら、当時の若者がもし正常な感覚をもっていたならば、小津よりももっと注目すべき、そして映画産業が斜陽であるがゆえに積極的に擁護すべき、高貴な現代映画の潮流が確実にあったからである。

     そのような潮流(複数)に属する映画作品の一部を、以下に挙げよう。今思い出しても、喪失の大きさに唖然とするほど高貴な映画たちである。ちなみに、どれがどれより優れているということはない。それぞれが高貴であり、順位をつけたりするのは全く不当である。
     

     黒澤明『影武者』、『乱』、『夢』、
     ウェルナー・ヘルツォーク『緑のアリが夢見るところ』、
     アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』
     陳凱歌『子供たちの王様』、
     コンスタンチン・ロプシャンスキー『死者からの手紙』、
     アレクサンドル・ソクーロフ『孤独な声』、『蝕の日々(日陽はしづかに発酵し・・・)』
     今村昌平『黒い雨』
     森田芳光『それから』

     俗物だけが、芸術の本来の理念を忘れ、嬉々として、「誰それは二流だ。誰それは誰それより劣る」などと、したり顔で断言する。そういう人間に限って、自分では短編の1本も作れはしないし、2流どころのヨーロッパの映画祭にさえ、出品できないのだ。

     日本がそのような俗物をあがめるような俗物大国であったからこそ、福島第一原発事故に至るような無責任体質の社会を営々と作り上げてきたのである。

     日本には、1980年代半ばに、現在よりもはるかに高貴な映画文化の潮流が存在した。そして、この国はそれを根絶やしにした。私は当時から、そのような文化的衰退の原因となる【空気を読む】風見鶏的な若者たち(今はほとんどが貧乏暮らしの中年)に嫌悪感を感じていた。

     それは今でも変わらない。自分より若かろうが少し年上だろうが同じである。私は彼らを心底、軽蔑している。映画芸術の古典時代は1980年代に終わった。その原因の一つが、日本に最も多く、他の国にも少なくなかった、こうした風見鶏的な俗物だったのである。
      
    関連記事
    スポンサーサイト

    コメントの投稿

    管理者にだけ表示を許可する

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

    最新記事
    リンク
    Amazon e-Store Alternative Life
    Related Items on Amazon.co.jp

    Copyright © Notes on Music, Cinema and Culture by 西周成 All Rights Reserved.
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。