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    なぜその大学人は古典時代の映画を賞賛するのか?

     芸術の世界において、半世紀以上前の傑作群は、もはや素人でも一度は耳にしたことのある常識の域に属する。
     
     プロ(創作家、研究者、批評家)を目指す若い人々は、それらに関して、作品名と作者名くらいは、大衆向けの(つまり中学生か高校生でも分かる平易な)入門書ででも読んでおき、10代後半から20代前半くらいまでになるべく多く鑑賞するべきである。その後でようやく、自分の個性の探究が始まる。
     そして100か200の古典作品を鑑賞した後、自分の適性について改めて考え直すべきである。そうすれば、その後の人生の数年間を無駄に過ごさずに済む。

     動く映像によって物語を語る全ての創作は、古典時代(1930~50年代)の主要な傑作映画を30~50本程度以上は見てから試みるべきである。この時代の古典は、今ではレンタルでも借りられるし500円程度の廉価版のDVDも出ているから、この本数は決して多くはない。30本でもいいのかと聞かれれば、こう答えたい。実は本人の才能次第ではもっと少なく、20本でも10本でもよい。必須なのは、『戦艦ポチョムキン』、『街の灯』、『イントレランス』、『市民ケーン』、『羅生門』、『イワン雷帝』等、誰でも題名を聞いたことのある作品である。

     最初に見るそうした映画群は決してハリウッド映画に偏っていてはいけない。なぜなら、古典的ハリウッド映画が採用している手法や構成のほとんどは、決してハリウッド映画固有のものではなく、またハリウッドの映画作家達による発見でもないからである。
     例えば、“サスペンスの神様”と言われる(本当にそうかは検証が必要だが)ヒッチコックが採用している技法の多くは、1930年代までにロシア映画やドイツ映画において完成されていた。オーソン・ウェルズの『市民ケーン
    』における様々な技法もそうである。嘘だと思うなら、エフゲニー・バウエルの『死の後』(1915)やフリードリッヒ・ウィルへルム・ムルナウの『最後の人』(1924)やフリッツ・ラングの『M』(1931)等を観直してみればよい。

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     “古典的ハリウッド映画”と呼ばれるものは、単に1930年代から50年代にかけて世界の主要映画製作国において、決してアメリカの映画作家だけではなく、同時代の他の国々の作家によっても作り上げられ、規範化されてきた諸技法を、体よくまとめただけなのだ。
     しかも、この時代のアメリカ映画には、日本映画のしっとりとした抒情性も、ドイツ映画やソビエト映画の切れ味のよい社会風刺も欠けており、どこか人工的で偽善的な雰囲気が漂ってくる。日本人はその歴史や風土のせいでアメリカ人ほど楽天的な民族性をもたないため、なおさらそれが強く感じられるはずなのである。ルイス・マイルストンの傑作『西部戦線異状なし』のような例外を除けば、大抵のハリウッド映画にベタに入っているBGMほど、映画におけるリアリズムを損なうものはない。
     
     ところで、なぜ日本の古い世代の大学人は、古典時代の映画を賞賛し、中でもハリウッド映画を特に賞賛するのだろうか?
     私には、利権と政治がらみであるとしか思えない。この場合の利権とはとりもなおさず、大衆受けすること、読者受けすること、そして長老たちの気に入ることである。 政治とは、映画史について無知な同僚達にも分かりやすい学内ポピュリズムや“役に立つ”(ように見える)研究に対する“産学官共同”政策へのすり寄りである。

     ところが、映画史はアメリカを中心に回っているわけではない。

     そして、映画産業はほとんど全ての国において、1990年代初頭から、不可避的な凋落の時代に入っている。
     
     現在の日本は、あらゆる兆候から判断して、ソ連末期からその解体直後のロシアやウクライナに最も近い状況にある。
     あの時代のロシアでは、修士号取得者(日本の修士と違って準博士とも訳され、日本やアメリカにおける博士レベルの実力をもつ)が、研究を捨ててビジネスにその能力を活かした。そして地獄のような90年代を生き延びた。あの時代のロシア映画がどのように凋落し、一部の映画人だけがどうやって生き延びたかを知るためには、私の研究を読むのが最も手っ取り早い(大部なので残念ながらまだキンドル版でしか出せない)。とにかく、日本語ではこれより詳しい現代ロシア映画史は読めない。
     
    映画文化と現代ロシア映画映画文化と現代ロシア映画
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     おそらく今後10年間の日本で生き残れるのは、事態を絶えず素早く判断し、迅速な行動を行うことのできるような個人だけである。そこでは、偏向的でない一般教養と、軽率さのない行動力と、広範で正確な知識が要求される。人生をこれまでの三倍か四倍の速度で生きなければならない。
     それが福島第一原発事故後の日本で、映画や映像の世界で生きる人々にとっての現実なのである。
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    テーマ : 映像・アニメーション
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    tag : ロシア映画 フリッツ・ラング 映画文化 映画産業 古典映画

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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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