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    アメリカ型大量消費文明の後に“来るべき世界”

     『来るべき世界』(Things to Come)というSF映画がある。H.G.ウェルズ原作・脚本、ウィリアム・キャメロン・メンジース監督による、1936年製作のイギリス映画である。この当時、ドイツでは既にヒトラーが政権を握り、ソ連ではスターリンが大粛清を行う前夜だった。この映画で間近に迫る世界戦争の危機が描かれているのは、そうした世界情勢を反映したものと言えよう。
     『来るべき新世界』では、世界戦争は数十年にも及び、ようやくそれが終結した頃には、人類の科学技術や文明の多くは失われてしまう。だが、まるで『マッド・マックス』的な廃墟と化した街で前時代的な支配者から解放された人々は、更にその数十年後、清潔で合理的な都市を建設する。その時代には、古代ローマのトーガを連想させる衣装に身を包んだ為政者が、一部の市民の反対を押し切って人類の遠大な理想のために自らの息子を世界初の惑星探査ロケットに搭乗させる。細かい部分は私の記憶違いがあるかもしれないが、以上のようなあらすじの映画である。
     
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     戦前のSF映画、特に未来の都市生活を描いた作品として、おそらくフリッツ・ラングの『メトロポリス』に並ぶ知名度を持った映画である。だが、ここで描かれた未来都市は、『メトロポリス』の場合と違って階級社会や労働者の重労働に支えられているわけではない。資源は地下からハイテク掘削機によって採掘されているようである。この映画は全体として、戦争や抗争は見せても労働や生活は全く見せていない。
     原作者で脚本も兼ねたH.G.ウェルズは、未来のエネルギーや資源についてどんな考えを持っていたのだろうか?こうした抽象的ともいえる科学万能主義的な未来世界は、戦後のSF映画にも部分的に継承された。そして、経済成長に陰りが見え、アメリカがソ連との経済的競争に一時的にせよ敗れかけた1970年代のハリウッド映画に、以前の開拓者的な精神なしで再現された(『ローラーボール』、『2300年未来への旅』)。
     だがその同じ時代に、エネルギーの確保や環境破壊の阻止や人口増加に伴う食糧不足の解決なしには、人類に“明るい未来”などありえないことを警告したアメリカ映画もある。リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(73)である。だが、その程度のことは、公害やオイルショックが世界の話題になった1970年代には、普通に考えてみれば当然分かったはずである。
     その後、全面核戦争が起きれば“核の冬”が到来して人類はほとんど滅亡するという科学者達の予測が発表され、冷戦終結直前にはチェルノブイリ原発事故が起き、酸性雨や地球温暖化も環境破壊の要因として指摘されるに至って、『来るべき世界』で提示されたような未来都市や宇宙征服のイメージは、たとえフィクションの中であっても全く非現実的に見えるようになった。1980年代後半の主なSF映画に描かれた未来世界は、ハリウッド映画、非ハリウッド映画の別にかかわらず、ほぼ全てが暗い翳を帯びているといっていい。

     しかし大半の人間は、普段は個人生活の忙しさにかまけて、人類の未来とか民族国家の存亡とか、そのような問題を忘れがちである。実際、福島第一原発事故が起きるまで、日本人のほとんどはチェルブイリ原発事故の影響を自分達の、あるいは“人類”の問題としては意識できなかった。
     映画や小説などフィクションの創作家達、特にSFとして大別されるジャンルの創作家達は、科学技術の進歩も自然環境の悪化も、それらに関する最新の研究やジャーナリズムにおける言説も、全て物語の“背景”や“設定”としてのみ扱いがちな気がする。たとえば、『ブレードランナー』の未来都市がどれほど薄汚れていて酸性雨が降りしきっていても、それは主人公の健康を害する要因としては描かれていない。そこでは環境は“雰囲気作り”のためのセッティング以上のものではない。だが、未来における環境の破壊や汚染が人間や社会へのリアルな脅威として描かれた場合、そこには従来SFと呼ばれていたジャンルには全くなかったイメージやドラマが展開されるはずである。そうしたイメージやドラマは、その衝撃によってジャンルそのものを破壊するかもしれない。コンスタンチン・ロプシャンスキーの映画『ミュージアム・ビジター』(89)は、今思えば早すぎた試みだったのかもしれない。人類は当時まだ、(チェルノブイリの後でさえ)自らが作り出した文明の産物による自滅を、それほどはっきりとはイメージできなかったのだ。

     SFは、現代の複雑化した社会・経済・政治・環境の相互関係を、鮮やかなドラマや情景描写、寓話性あるいは象徴性を備えた物語を通じて提示することのできる、興味深いジャンルであると思う。私はSF映画の専門家ではないし、ましてやこのジャンルの小説に至っては現在の動向を少し遅れて部分的に追うのが精いっぱいである。

     それでも敢えて言えば、3.11後のSFは、以前のように、その内部だけで完結しうる疑似閉鎖系を許容するようなジャンルではなくなったという気がしている。SFの主な読者あるいは観客であったはずの“中産階級”はアメリカを初めとして先進国で徐々に瓦解し始めている。また、その不可避的な帰結として、科学技術の発展に充てられる振興予算の削減や、高等教育を受けられる若者の減少が考えられる。
     今後、徐々にエネルギーは、たとえ化石燃料に代わるオールタナティヴが開発されたとしても、大量に消費される理由がなくなってゆくだろう。なぜなら、貧しいが誇りを失っていない人間というものは、自分の未来や理念等を犠牲にしてまで不必要な消費をしないからである。社会の趨勢が清貧に向かえば、やがてそれは新しい社会規範を定着させる。そうなれば、当然のごとく多くの高価な技術が不要になる(iPadやエスカレーター等は言うまでもなく、エアコンすら、人間の生物学的・社会的な生存に不可欠なものではない)。
     全人口の1%に富を集中させようとした金融資本主義の末路とは、資本主義そのものの機能不全と破綻なのである。
     
     現在のエネルギー消費は、その大部分が、一般市民向け製品の大量生産や一般市民の“快適”な生活の追求によるものである。市民社会の拡大、その大衆社会化による大量消費こそが、これまでの資本主義社会における経済成長を支えてきた原動力だった。だがその時代が終わるとなれば、我々の未来は、最悪の場合には階級社会の復活により“新しい中世”となり、それよりもましな場合には、1930年代からせいぜい70年代までのどこかの生活水準で満足するしかなくなる。私が予想する『来るべき世界』とは、そのようなものである。そこでは、宗教や芸術、哲学の役割が現在よりも大きくなっていることだろう。
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    テーマ : イギリス映画
    ジャンル : 映画

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    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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