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    忙しい人のための映像編集の基礎

     YouTubeやその他の動画投稿サイトに自分の動画をアップロードして広告収入を得たり、単に注目を浴びたいために非常な労力を使って(少なくとも一日以上は費やして)それなりに高度なCG、アニメを自作する人々がいる。
     
     そのような人々は“自分の世界観”や技術を持っているのであり、セミプロであったり或いは業界人であったりする。だが、素人が最初に作る映像作品で重要なのは、CGやアニメの制作ではない。最も重要なのは編集である。

     映像制作を職業にしたいとか映画作家になりたいとかいう野心を持っているわけではない人々は、映像編集に関する全ての知識を持つ必要はない。ただ、作品として継続的に観られるものを作る、つまり題材の新規さや「可愛さ」など二次的な要素を別としても観られる作品にするには、やはり“基礎”くらいは知っておいた方がよい。

     ドラマ的な動画の場合、編集の基礎はそれほど複雑ではない。要するに動きがマッチし、退屈にならない程度に切り貼りすれば、それなりにはなる。あと、音声は各ショット(俗にいうカット)をそのまま使うのではなく別撮りするか、メインカメラで録音したものを一貫して使うこと。その程度を踏まえておけばよい。それ以外は編集の問題というよりもドラマツルギー(劇作)の問題である。セミプロ以上のレベルを目指したければ、次の本をお読みになると良い。
    現代映画 構成とドラマツルギ―現代映画 構成とドラマツルギ―
    (2013/10/08)
    西 周成

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     アマチュアがネット上で公開するほとんどの動画はドラマ仕立てではない。下らない題材も多く、個人的には観る気のしないものがほとんどだが、それでも作者は多くの人々に見て欲しいから公開しているのであろう。
     自分の想定した観客にアピールするにも、編集は重要である。
     
     映像の編集は、基本的には文章の構成と似ている。どの時点で本題に入るか、導入部をどの程度の長さにするか、どの程度までフォーマルなスタイルにするか、既存のスタイル(或いはテンプレート)をどこまで自分流にアレンジするか等、そうした配慮は、文章を書く時と同じだと考えれば間違いない。 

     だが、映像編集には、文章作成とは決定的に違う側面もある。それは、動く映像が、そして音声が加わる場合にはなおさらだが、同時に複数のテーマを並行的に展開できることである。これは文章の場合、詩とか非常に高度な文学作品でしか見られない現象だが、映像作品では当たり前のこととして起きる。と言うより、それを踏まえないと、退屈な映像作品になってしまうのである。
     
     例として、私が1時間以内で編集した短い映画を挙げよう。まず、次の動画をご覧頂きたい。僅か1分26秒の実験的な作品である。
      
     この作品は、アメリカ製のパブリックドメインの映像作品と公式記録写真のみから構成されている。冒頭に使用されているのは、1940年代製作の屋外広告の効用をアピールするための宣伝用短編映画、その後の二つの大きな断片的映像・音声は、60年代軍部が制作した政治プロパガンダ映画である。アメリカの法律では国家公務員や官庁の制作した作品は基本的に、年代に関係なくパブリックドメインになる。

     屋外広告の宣伝用短編映画のナレーターは、この映画に引用されている部分の冒頭で、アメリカにおける消費者パワーと産業界の関係について(誤った)説明を行っている。ナレーターが“The American way of life”というフレーズを言った直後に、このフレーズの音声だけが何度も繰り返し、映画の最後まで、音量を変化させながら反復されているのにお気づきだろう。このフレーズは、この実験映画のタイトルでもある。作品のコンセプトは、他でもない“アメリカ的生活様式”に対する、現在の時点からの皮肉な再考である。

     音声トラックと映像トラックが、少しずつ元の素材からずれた意味を帯び始め、中盤以降は元素材とは全く異なった印象を観客に与えるようになる。まず、“最高の生活水準”(The highest standard of living)という言葉が“The American way of life”のフレーズと重なる。ここでアメリカ的生活の物質主義的、消費主義的な性格が強調される。

     その後更に、“この国は神の下にある”(This Nation Under God)という、軍部のプロパガンダ映画から引用されたフレーズがそこに加わる。このフレーズとそれに続く映像は、“アメリカ的生活様式”が冷戦時代のイデオロギーによって歪んだ解釈を与えられたことを示している。

     これで音声は3つの、念仏のように執拗に繰り返されるフレーズを含むトラックと、オリジナル素材から引用されたそれらの言葉を含む文章トラックとの、計4つのトラックに増殖したことになる。同時に同じ音量で同じ位置から聞こえると単なる騒音に変化するので、それぞれの音声トラックにはステレオ音響における異なった位相を持たせている。更に、オリジナル音声の文章中で観客に聞きとらせたい部分がある場合は、その前後で他のトラックの音量を微妙に弱めている。

     後半は主要な映像素材に、幾つかのポートレート写真や9.11のツインタワー崩壊現場の写真、ポラリス原子力潜水艦のミサイル発射実験の映像が、映像の列に挿入されている。ポートレート写真は、ハリー・トルーマンとドワイト・アイゼンハワーという、1950年代核軍拡の張本人と言うべき2人の大統領、そして冷戦時代と冷戦終結後にCIA長官だったアレン・ダレスとロバート・ゲーツのものである(これらの写真や映像もパブリックドメイン)。
     
     クラシックのソナタ形式で「コーダ」等と呼ばれる終結部では、再び音声トラックがメインテーマだけに戻り、映像トラックの方はHDの横長画面を活かした画面分割で終わっている。エイゼンシュテインが『ストライキ』や『十月』で行ったような、知的な並行モンタージュを、ショットの交替ではなく画面分割で行っている。逃げるキリンはアレクサンドル・ソクーロフの長編第二作『痛ましき無関心』のラストへのオマージュでもあるが、原潜から発射されるミサイルの垂直的な運動とキリンの縦長の造形との類似性と、人工VS自然の対照性とが同時に表現できるためでもある。

     このように、編集とは基本的に、人間の抽象的思考を目に見える動く映像と音として具体化する作業である。そういう認識こそが、編集の基礎であると言ってもいい。同時に展開する複数の意味の列を、マジシャンが空中でボールを操るように自在に操れるようになること、それが編集の本質である。必ずしも素材を自分で撮影する必要もなければ、既存の素材を買う必要もない。
     
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    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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