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    K.ロプシャンスキーの新作について

     現在、良くも悪くもコンスタンチン・ロプシャンスキー(1947~)ほど、映画の世界で「ロシア・インテリゲンツィア」の伝統を継承し続けている監督はいないだろう。「良くも悪くも」と書いたのは、もう一人の同世代の監督、アレクサンドル・ソクーロフには、「悪くも」の方があまり感じられないからだ。彼らは芸術家であるから、インテリゲンツィアを「知識人」と解してしまっては、私の言わんとすることが誤解されると思う。つまり私が念頭に置いているのは、ロシアの芸術的伝統、特にプーシキン以降の19世紀の伝統である。

     ソクーロフは既に1940年代の日本や中世ドイツを舞台にした劇映画『太陽』や『ファウスト』を撮っているだけでなく、中編ドキュメンタリーには西ヨーロッパの美術館への旅を記録したものさえあり、それぞれの作品は各地の風土や文化を反映している。それとは対照的に、ロプシャンスキーは『世紀の終わり』(01)で一部ドイツとポーランドを舞台にしてはいるものの、その他は常にロシアで撮影し、『死者からの手紙』(86)のような“西側”を舞台として設定しているはずの映画でさえ、ロシアの文化的伝統(特に芸術と宗教)との繋がりを意識させる内容となっている。

     ソクーロフに比べて遥かに寡作なロプシャンスキーだが、映画監督としての技術は短編『ソロ』でデビューして以来、確実に向上し続けている。昨年モスクワ映画祭で上映された新作『役柄(Роль)』は、ミハイル・ハネケの『白いリボン』と同じくらいかそれ以上に、白黒映画の美しさを再認識させる作品である。
     この映画を観ていて驚かされるのは、ロプシャンスキーのこれまで作品と比べてもスタイルが匿名的なものに近づいているにもかかわらず、その匿名的で「古典的」スタイルが、非常に新鮮に見えることだ。おそらくそれは、この映画が、私が常々主張しているような1980年代における「古典時代」の終焉を全否定するかのような完成度を持っているからだろう。
     1950年代までの古典的な映画の完成度は、映画のドラマツルギー的側面と、映像や俳優の演技その他に対する作者の目配りとの、微妙なバランスによって実現されたものだった。映画的な物語叙述のための共通の規範を順守しながら、規範を表現の自由に対する「束縛」と捉えるのではなく、むしろ表現を可能にする前提として受け入れることで実現された完成度だった。そして、そのような古典的作品は、俳優、カメラマン、その他のスタッフに規範が共有されていたスタジオ・システム時代だからこそ、実現できた。

     『役柄』は、そのような映画史の常識的理解を、覆すとまではいかなくとも、それに疑念を抱かせるに十分な作品である。
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    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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