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    “手段の節約”と劇映画構成の意外な関係

     最近、フリッツ・ラングの『月世界の女』を観る機会があった。勿論、ネットで観たのである(私には、自分がそれほど好きでもない映画作家の未見の映画を、高額ソフトを購入して見るような趣味はない)。

     私はラングの『メトロポリス』を「SF映画の元祖」の一つだと思ったことは一度もない。あれは、何か中途半端なジャンルの混合物である。そのことはジョルジオ・モロダー版を劇場で観た時から、薄々感じていたことではあった。失われたと思われていた断片を16mmフィルムから復元して挿入した最新版も、全く事態を改善しないどころか、益々悪くなっている。

     『メトロポリス』で顕著なのは、ジャンル的な特徴の混在が、孤立した視覚的イメージに起因していることである。それらのイメージは、ドラマツルギーの効果を無視して、ただ何らかの(多分、視覚的に面白いからという)理由で導入されている。例えば、なぜ、未来都市の地下に古代ローマの“カタコンベ”のような洞窟があったり、登場人物の幻覚に大鎌を持った骸骨という中世的な死神が登場したり、発電設備らしい機械が「モレク神」(歴史映画『カビリア』から『イントレランス』を経て混入したと思われる)に見えたりしなければならないのか? 
     これらの紋切り型のイメージは、ラングが現実のニューヨークを見て受けた近代都市のイメージとは、全く相いれないものである。つまるところ、この映画の未来都市は合理化されたハイテク世界なのか、それと民衆が中世的な迷信に惑わされているような管理社会なのか?では、思想の管理は何によって実現されているのか?これらの問いに、映画は答えられない。群衆は群衆で、マルクス主義的な階級闘争史観の影響からか、いかにも“工場労働者”然としているし、19世紀的な超長時間単純労働を強要されている。つまり、『メトロポリス』は、一貫性ある(説得力のある)世界を提示することに失敗している。

     同じことは、『月世界の女』にも言える。ドイツ側のコンサルタントが、ソ連のツィオルコフスキーから間接的にロケット工学の知識を仕入れて作り上げたという、衒学的なほどに詳細な軌道や脱出速度に関する描写、ロケットとその発射の過程の描写は、登場人物達が生活している社会や彼らの世界観と矛盾している。
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    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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