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    Rhythm of theater NO and Japanese cinema

    I think that few people has thought about the importance of rhythm in film art.
    Western tradition of drama, starting from the time of Aristotle, has been developed mainly around such concepts as "story", "character" , "catalysis" and so on.

    The structure of drama in this tradition was based on the development of "story", which is played by actors, imitating fictional, historical or legendary people. They are called "characters"and have their own personalities and backgrounds.
    "Story"in Western drama the climax must be led by the conflict (even if not so clear and distinctive) between them or the growing contradiction of the main character's situation among other characters.

    On the other hand, in Japanese most ancient form of drama, theater NO, "story"and "character" are not exclusive constructing elements. As Zeami wrote, "Story"in theater NO must be divided into 3 parts according to the principle "Jo-Ha-Kyu". This principle is utterly different from famous division of Aristotle; "Beginning, Middle and End".

    The parts "Jo","Ha" and "Kyu" must have, according to Zeami, predetermined duration( in the play and its performance ) and each of them must have different tempo.
    By Zeami's formula it is called "Jo-Ha-Kyu Go-Dan"(dan means "step").
    It is a rhythmic principle, combined with rather fixed contents for each parts of the drama.
    The structure of the drama looks very simple from Western view to the theater, but very complex from musicological or semantic point of view.

    From semantic point of view, theater NO is a realization of true "informational polyphony"(the word used by R.Barthes for theater in general). From musicological point of view, it has a very complex set of canons for rhythmic structure and by them it embodies, in my opinion, "poly-rhythmic"structure.
    Theses two aspects of theater NO will obtain much more complexity in the case of "Hukushiki Mugen No"(doubled dream play for theater NO). The genre most eloquently represents the aesthetic completion of this unique stage art.In addition, in this genre will be very interesting from narratological point of view.

    Akira Kurosawa's "Kagemusha" was made on Zeami's tought "Jo-Ha-Kyu Go-Dan" and its story is similar to those of "Hukushiki Mugen No". Almost all of the fascinating effects of this film's dramaturgy came from that principle.
    Kurosawa's next masterpiece "Ran" also owes a lot to dramaturgy of theater NO.
    In each case, contrast and change of tempo, rhythmic structure is combined with growing instability of giegesis and gradual erasing of subjective-objective border in the way that Kurosawa interpreted the aesthetics of theater NO.

    If turning our eyes to other classics of Japanese cinema, we will find "poly rhythmic"parts in some films of Kenji Mizoguch, too.

    About this theme I have written 2 academic works in Japanese, 2 in Russian, 1 critical work for special edition for the journal Kinema junpo. They have not lost their value, but
    I've never tried to translate them into English, as I have little time so far and I'm so "bad English" writer.

    tag : Kurosawa theater NO Kagemusha

    なぜその映画は“退屈”なのか―ドラマ構成についての覚書

     10年も20年も前に観た映画をDVDやブルーレイで観直して、前よりも好きになれる映画もあれば、自分の中で評価が下がってしまう作品もある。そのような評価の変化は、俳優の演技や物語内容や撮影技術よりも、むしろ脚本段階でどうにでもなったはずの構成の問題に関わることの方が多い。
     私は10代の頃から(80年代前半から)映画を一つの芸術として鑑賞し、個々の映像の評価に関しては自信があった。また、俳優の演技に対しては、年齢を重ねることで豊かになる人生経験というかなり正確な判断基準を持っている。それらは才能や感性や経験によるものであり、その意味では専門家でなくとも判断できる要素である。
     
     だが、ドラマとしての構成に関しては、意識的に分析力を高める必要があり、その分析力はある程度時間をかけて“訓練”されねばならない。
     
     劇映画に限って言えば、退屈な作品には、まず何よりもドラマ的な構成に不備がある。撮影技術や俳優の演技に関しては、それぞれの国や地域で伝統も違うだろうし、個々のスタッフや役者の実力にも左右されるため、脚本家や映画作家は全ての責任を負いきれるものではない。だが、完成度の低い脚本をそのまま映画にしてしまえば、彼らはその責任を免れることはできない。

     この点で、観客や批評家達によって最も過大評価されている劇映画の一つが、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』であろう。アメリカ公開時には2時間半程度に短縮されたようだが、日本公開当時も現在DVDやブルーレイで観ることのできるヴァージョンも、3時間を軽く超えている。しかし、その長大さに見合うだけのドラマが、そこにはない。個々の映像は完成度が高いが、上映時間に比してドラマ的な空白が大きすぎるため、それを補うために絶えずモリコーネの抒情的な音楽が流れている。私にはそれが、素人臭い誤魔化しのようにしか見えない。しかも驚くべきことに、レオーネと複数の脚本家達は、この映画の欠陥だらけの脚本作りに12年も費やしたというのだ。
     
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     この映画を一つのドラマとして見た場合、非常に退屈であることは間違いない。物語内容は主に、40年以上に渡るヌードルスとマックスとの友情と裏切り、その悲劇的結末から成っている。それをスクリーン上で4時間近くかけて見せるためには、彼ら自身の性格(生い立ちも含む)だけでなく、副次的登場人物達の思惑や行動、更にはそれぞれの登場人物が抱いている人生観(と言っても殆どはギャングなので大差はないだろうが)をきちんと描き分け、それらを織り合わせるようにして人間関係の変化を創っていかねばならない。
     さもないと、豪華なセットや優れた撮影技法や俳優の表情や凝った小道具ばかりが目につき、そもそも何のためにそれらが必要だったのかが分からなくなるからだ。そして『ワンス・アポン・ア・タイム~』は、まさにそのようにして失敗しているのだ。例えば、ヌードルス少年の憧れであり後に女優になるデボラの性格が、どこかで鮮明になるシーンがあるだろうか? 或いは、マフィア的な組織を作った4人の仲間達の性格が、描き分けられていただろうか? 一般的には少し説明が足りないくらいが余韻はあるものだが、この作品の場合には、最初から作者達に彼らの人物像を描き分ける気がなかったことが分かってしまうのだ(サイレント時代の“ティパージュ”つまりアマチュア俳優達のように、視覚的に区別できるだけである)。

     比較のためには、黒澤明の『影武者』や『乱』、或いは80年代初頭から半ばにかけての富野由悠季のアニメ作品を観直してみればよい(おそらく後者は前者の影響を少なからず受けている)。長回しが多いために退屈さを感じる人もいるタルコフスキーの映画でさえ、『ワンス・アポン・ア・タイム~』ほどドラマ的に希薄ではない。『ストーカー』等はむしろ、ドラマ的な緊張が長回しの手法で更に強調されているくらいだ。

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     更に付言すれば、日本では観ることができないが、レオーネの映画とコッポラの『ゴッドファーザー』シリーズに影響されたロシア製の1クールものテレビドラマ『ブリガーダ』の方が、お手本の一つにされた筈のレオーネの映画よりも遥かに引き締まったよい構成を持っている。そして、友情とその喪失というテーマも『ブリガーダ』の方が遥かに効果的に提示している。

     

      

    テーマ : 洋画
    ジャンル : 映画

    なぜその「ハウツー本(映画・小説)」は“役に立たない”のか

     劇映画(物語映画)や小説を創作するために、「物語世界」(俗に言う作品世界、に近い)の設計や作品のジャンル的な属性について、ある程度以上の意識が必要なことは当然である。そして、巷にあふれる映画や小説の“ハウツー本”の多くは、これらを強調しているように思われる。
     もっとも、私はそのような本を多数読んだわけではなく、主にネット上の大手ショッピングモールにおける読者レヴューからそう推測しているだけである(このご時世だから、最初から“役に立たない”と分かっている物をたとえ批判するためにでもわざわざ購入する気にはならない)。

     どうやら、そのようなハウツー本では、
    ①それぞれの「ジャンル」の「物語内容」や登場人物を、神話研究や経験論に基づいてパターン化したり分類したりする、
    ②映画なり小説なりに固有の、既に規範化している「効果的」な見せ方や語り方のパターンを紹介する、
    ③著者の創作上の経験を理論化して解説する、
    といったことが主眼になっているようである。

     このようなハウツー本は、創作に必要なのはそれだけではなかろうという批判的意識を読者がもち得るように書かれていれば、参考程度にはなるかもしれない。だが、「知るべきことはそれが全てである」と読者に思わせることを著者が意図していたり読者がそう思い込んでしまうような場合には、全く役に立たない。

     特に要注意なのが、①を中心とするハウツー本である。これを真に受けていいのは、おそらく、二流どころのゲーム屋(失礼!)だけである。
     篠田節子の短編小説に、「ホワイト・クリスマス」というのがあり、ゲーム業界の人間が「物語世界」やキャラクターをどう捉えているかが、かなり皮肉に描かれている。主人公は文学賞受賞を目指す若い小説家である。彼が、生活のために恋愛シミュレーションゲームの「ノベライズ版」をやっつけ仕事で書くことになり、参考にあてがわれたそのゲームの試作版をプレイするうちにのめり込んでしまうという話である。ゲーム業界人が物語世界を構想したりキャラクター設定を考える際の浅薄さが、主人公の視点から相当辛らつに批判されているが、その批判自体には相当の説得力がある(短編集『静かな黄昏の国』に所収)。

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     物語世界の設計と物語内容及び登場人物のパターン分類を中心にするハウツー本は、常に変化してゆく社会的現実を無視したところで成り立っている。言わばレヴィ・ストロースに始まる「構造主義的」な思考法である。それを中心にしてしまうと、著者の創作上の体験や独自の理論をその上にいくら積み上げても、結局は砂上の楼閣となるだけである。

     常に変化し、ますます変化が速くなっているように思われる現実社会の中にしか、映画や小説への需要はない。簡単な例を挙げれば、映画のプロット展開のスピードも、そこで支配的な要素も、1920年代と1950年代とでは全く違う。それは人々が日常的に観たり読んだりする商業映画や小説について言えることであり、社会的状況やその要素たる科学技術の発展、さらには世界の政治経済情勢にさえ影響されている。状況は1980年代と2000年代でも違うし、国や地域によっても違う。

     どれほどマーケティングに長けていようと、現実の社会状況を踏まない「時代を越えた」「神話的な」物語世界や登場人物しか描かれていないような作品を、商業的に成功させることはできない。少なくとも、中長期的に見てそのような作品は忘れられる運命にある。過去のヒット作品から共通点だけを抽出する「パターン化」思考も、同様に役に立たない。

     普遍的であり得るのは、あれこれのテーマだけである。それ以外は全て時とともに変化する。芸術上の規範は常にその数を増やしながら、可能な組み合わせの数を幾何級数的に増加させる。読者や観客の教育水準や嗜好も変化する。集団主義的な傾向が強かった民族に個人主義的な傾向が強くなってゆくこともあれば、経済大国が見る影もなく没落することもある。教養主義の衰退の後には、その反動による見直しがあるだろう。
     
     だが、ハウツー本の対極に位置するような、教養主義も「フィールド・ワーク」重視も、度を過ぎればやはり創作の役に立たない。教養や理論が最重要だと思う人は大学の先生を目指せばよいのだし、フィールドワーク至上主義者は社会学者か文化人類学者、或いは社会活動家にでもなればよい。

     おそらく、ある有名な映画作家が言った「自分にしかできないことをやりなさい」というアドヴァイスが、最も役に立つだろう。自分にしかできないことは、もちろん、どんな本にも書かれてはいない。

     

     

    テーマ : 創造と表現
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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