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    How the mass(consumers) are cheated by the internet-movies

    How they cheat the mass by making "professional","well-made" audio-visual products.

    After watching it,compare with these "amateur" videos.

    Economic globalization and deformation of languages

    Recently I received an E-mail from one reader of my book in English(translation).
    The person accused me for translating my own book from Japanese into English because I have made mistakes in grammar and diction of English. And the person advised me not to translate any other books by
    myself, saying that I need an editor who knows English(Who? Is there any volunteer?).

    タルコフスキーとその時代―秘められた人生の真実タルコフスキーとその時代―秘められた人生の真実
    (2011/04/04)
    西 周成

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    But I rather wonder why other readers have never complained with my bad English if it is really so bad.

    The book criticized is "Tarkovsky and His Time"(revised Edition, paperback) .
    There had been many books on Andrei Tarkovsky in English. But I think there is no other book concentrating on his own life, trying to be as objective as possible, with the natural sense of respect to him as a physical human having noble ideal.
    In addition, the information I have explored from the Russian books and Russian websites must have certain value for English native speakers who can't read Russian and have never been in Russia.
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    Every national culture is bound to its language and the land where it was born and brought up.
    More than 20 years ago I bought a book written in English but published in Moscow. Its translators were, apparently, Russians. The book is titled "About Tarkovsky". And it was sold in Tokyo, namely they exported the book for foreigners.
    I think, there must be mistakes of English in that book, but its value for young researchers and fans of great master's works is not there.The "information" contained in that book( originally written by those who knew Tarkovsky in his lifetime, of course, in Russian) is undeniably true.

    I would rather say that today's horrible situation of economic globalization and apparent decline of culture-art value system formed from 18th to 19th centuries, are inevitable outcome of Western modern civilization. Namely it is self-destructing in its cultural aspect.
    And the deformation of the dominating language actively used there in business and popular culture, academies and politics, is also inevitable.
    Who has enough time to care about the elegance of the words in translation if one or two countries are dominating in the large part of cultural industry of his or her homeland? Publication of a decent book in Japan, especially a book on so-called arthouse cinema, now brought the publishers only Deficit.

    Our situation will become better if Hollywood and MacDonalds stops exporting their "culture" to the countries whose languages and cultures the leading global companies know only superficially.

    In short, we don't want to see another Mr.Beans, another "G.I Joes" and destructing "derivatives"(totally worthless papers which our mega-bank and leading insurance companies had bought from USA ). Main effort of our generation for these 2 decades has been made for struggling against consumerism of mass who smack their lips over degradaded popular culture made in USA.

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    頑迷な保守主義が文化を停滞させる

     論理的思考の結果よりもその場の空気を読むことを重視し、どんな場面においても年長者への敬意と自分よりも若い世代への見せかけの鷹揚さを示すことを美徳とするこの日本の文化的伝統は、この国が始まって以来とも言える危機的な現状にあっては、全くマイナスにしか作用していない。

     だから、多くの人々の反感を怖れずに言えば、この文化的伝統はしばらく忘れるべきである。この国を、政治的にというよりは文化的に存続させるために、である。

     このように述べる私が今問題にしているのは、脱原発議論や国民の大半がまだ自覚症状のない内部被曝のことだけではない(それらは数年以内に“事実”の重みによって能天気な国民にショックを与えると思っているが)。

     人間は年をとるにつれて、人生経験は増すが思考能力は衰える。60代、70代にもなれば、天才でもない限りは40代、50代の時と論理性において同じレベルの仕事をすることはできない。それを自覚してかせずにか、高齢の創作家や研究者の多くがその年齢になると伝統や経験論に頼り始める。鋭い理論の切れ味と簡潔でテンポのよい語り口に変わって、何か達観したかのような世界観や、彼らが一生を捧げた芸術ジャンル、所属する民族或いは国の文化的伝統を一身に背負ったかのような博覧強記の披歴が、彼らの作品に目立ち始める。
     それは、黒澤明のような芸術的天才、或いはピエール・ブルデューやユーリィ・ロトマンのような倫理観ないし職業意識の強い研究者の場合は「ライフワーク」の完成に導くが、凡庸な才能しかない創作家や虚栄心ばかり強い学者・批評家の場合は、鼻もちならない冗長な美文調や、全く無意味で能天気な形式の遊戯に導く。若者や中年世代にとって有害無益な作品や著述が、彼らの晩年にその経歴を汚すことになるのだ。

     この国に根を張っている頑迷な保守主義は、芸術的天才や誠実な専門家と単なる権威主義者に堕した「実績ある」俗物との区別を難しくしている。芸術的天才は、時に愚かでナイーヴに見えるような作品を創造するが、そのような作品は、10年、20年を経るうちに、実は愚かでもナイーヴでもないことが分かる。確か、タルコフスキーは詩には幾分愚かなところがあると書いていた。それが彼自身の言葉かどうか、今私には確かめる時間的余裕がないが、例えば彼の『ストーカー』の制作をめぐる顛末や『サクリファイス』の冗長にも思えるリズム、それにもかかわらず天才的であり簡潔であるこれらの作品の構成を想起すれば、彼は自分の詩人的な特質をよく理解していたのだと分かる。
     だが、パラジャーノフにしろ、黒澤明にしろ、同じことが言えるではないか。40になるまでは体制に迎合したかのような凡作しか作れなかったパラジャーノフや、公開当時には非常に説教臭く愚かにさえ見えたが現在では預言的であったことが分かる『夢』の作者は、まぎれもなく、映画の詩人だったのである。

     芸術的天才の多くが、というよりも私の個人的な意見ではそのほとんど全員が、実は詩的な作品しか創らなかったというのは偶然ではないだろう。エミール・ゾラのような一見「散文的」な小説家にさえ、詩的なひらめきがあった。頑迷な保守主義者たちが決して理解できないのが、芸術作品の詩的な側面である。

     一方、批評や人文諸学の研究で彼らが理解できないものは、研究者の倫理的なポジションである。人文諸学における一流の研究者は、決して文化に対する消費的な態度を奨励したり、それを先導したりしない。例えば、ミハイル・ヤンポリスキーがソクーロフの『痛ましき無関心』を論じた文章を思い出してもいいし(私の訳した『ソクーロフ』は絶版状態だが)、フランスの批評的伝統が好きな人はロラン・バルトをよく読みなおしてみてもいい。
     高価な彼らの本を読むような経済的余裕がない若い世代には、私の著書『タルコフスキーとその時代』をお薦めする。誤解を避けるために付け加えれば、私自身が一流だと言いたいわけではない。芸術の研究において権威主義の誘惑に対して抵抗し続けた私の本は全て、ソフトカバーの体裁をとることで意図的に廉価にしてあるのだ。

     長大さやディテールへの過剰なこだわり、凝った意匠への固執は、今の時代にそぐわないだけでなく、本質を見失わせる。私はこれまで一度も、本の体裁やカバーに惑わされてその内容への自分の判断を曇らせたことはない。例えば、薄い岩波の文庫本でしか出ていないベラ・バラ―ジュの『視覚的人間』やそれを意識して90年代の困難な時期のロシアで少部数出版されたヤンポリスキーの『可視的世界』、或いは私が知る限りロトマンの著作集には入っていない貧弱な体裁の雑誌掲載論文「壊れゆく世界のオーケストラ・リハーサル」、1970年代の古本でしか読めないヤン・ムカジョフスキーの『チェコ構造美学論集』等は、近年刊行された洒落た体裁の、或いは時流に乗った官製文化への迎合論文集などより、私にとって100倍以上の価値を持っている。
     同じことはもちろん、芸術作品に関しても言える。モノラル音声、スタンダード画面の1980年以前の古典的な映画作品は、稀に良く出来てはいても後にほとんど何も残らない最近のハリウッド製ジャンル映画よりも、やはり貴重である。それらの古典作品のうちパブリックドメインになっている作品は、500円の廉価版DVDで見てさえ、やはり普遍性を持っている。だが、古典作品は、古典として誰か権威者から認められたから価値があるのではない。そう考えるのは文化的な保守主義者である。誰かが何かを語ったからではなく、作品自体に普遍的価値があったからこそ、古典として残ったのである。

     創作家や研究者は、自分自身が大家や権威として承認されることを望むのではなく、その前に普遍的価値をもつ作品を後世に残すことを、まず考えなければならない。当然のことだが、天職としての創作家や研究者には、文化の継承と発展に貢献するという使命がある。そして、読者や観客は、真摯に創られた作品や書かれた著作を、そのようなものとして、いかなる権威主義のフィルターも通さずに、私心なく受け止める必要がある。

     ある民族や国の文化的水準は、そのような人々がどれだけいるかによって決まる。そして文化政策の役割は、そのような環境を整えるために、文化的な雑草(俗物的権威主義、無意味な伝統の墨守、形骸化した研究の方法論)だけが猛威を振るわないように、幾つかのパラメーターを調整することにある(例えば、複数の研究機関も世代を横断するような研究誌発行への、過剰にならない程度の助成等)。
     
     頑迷な文化的保守主義は何も生み出さない。また、政治色の強すぎる文化的な革新への期待も、何も生み出さない。芸術文化の根底にあるのは、無私の、宗教的でさえある奉仕である。そして、ほとんどの正常な人間は、何か自分を越えた普遍的な価値や存在に、奉仕したいという願望をもっている。芸術はその願望をイメージによって示し、芸術の研究はそのイメージがいかに巧妙に構成され、社会の意味論的な更新にさえ貢献しているかということを、筋道だてて教えてくれるのである。

    テーマ : 文明・文化&思想
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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