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    帝政ロシア最後の四半世紀における芸術界

     2004年から06年を中心に、私がミハイル・ヴルーベリの後半生を描いた小説『倒されたデーモン』を執筆していた時、そのための資料を探していて気づいたことがある。

    倒されたデーモン倒されたデーモン
    (2012/10/31)
    西 周成

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     その当時のロシアは、豊富な資源の輸出を背景に経済的復興のさなかだったとは言え、リーマンショック以前の日本と比べて貧富の格差が小さかったわけでもなければ、国民の平均的所得がそれほど多かったわけでもない。にもかかわらず、当時のロシアには、自国の芸術文化の普及を目的とするマルチメディア資料がかなりふんだんに販売されていたのである。中には、リムスキー=コルサコフを主人公とする1950年代の伝記映画や、トレチャコフ美術館でしか販売されていないヴルーベリに関する短編ドキュメンタリーのVHSソフト等もあった。それらは視覚的なイメージを明確化するための参考になったことは確かだが、取材旅行に行かなければ購入できない割に、具体的史実を確認する役には立たなかった。

     専門家の注釈付きの画集や部数限定発行の研究書や啓蒙書はネットで購入したが、当時はまだオーディオ・ヴィジュアル商品の個人向け通販がロシアで禁止されていなかったので、向こうの美術史や文学史教材用CD-ROMも幾つか通販で購入した。そして、これが非常によくできたマルチメディア商品だったのである。
     
     小説の主人公であるヴルーベリだけでなく、同年代の画家ヴァレンティン・セローフやコンスタンチン・コロヴィン、少し遅れて登場したムスチスラフ・ドブジンスキーといった画家達の資料をCD-ROMに収めたそれらの「教材」には、画家達の代表作の静止画像はもちろん、同時代人の回想録の断片や詩人の葬儀の模様をMPEG-VIDEOで収めたものもあり、BGMには同時代のロシアやフランスの作曲家達の作品が用意されていた。家に居ながらにしてあの時代の雰囲気を堪能しつつ資料を調べられるという、なかなか美的に優れた商品だったわけである。CD-ROMでさえ、それだけ鑑賞者のために工夫をしているというだけではない。芸術文化の普及と発展に寄せる気概や真摯さが、そのような仕様から伝わってきて、こちらも大いに頑張りたいという気にさせてくれたのだ。

     同時代の日本を今振り返ってみると、それらとは正反対の、何かぬるま湯につかっているような気にさせる「脱力系」のものしか思い出せない。CD-ROMの話ではない。日本映画がそうだったのだ。
     
     具体的にタイトルを挙げるのも日本人として恥ずかしいが、具体性がない記述では私の読者は納得しないと思うので、敢えてそうする。
     『ALWAYS 三丁目の夕日』と『かもめ食堂』である。前者は、「実際には存在しなかった架空の昭和のテーマパーク」であり、後者は……映画ではないことはもちろん、ドラマですらない。
     
     私があの頃、まるでそこに実際に生きたかのように感じながら書いていた、帝政ロシア最後の四半世紀の芸術界は、個人の世俗的な苦労や社会的な矛盾があっても、創作者達にとって最高度に「生きがい」のある世界だった。少なくとも、鉄道王サーヴァ・マモントフやトレチャコフ兄弟のいたモスクワの美術界、マモントフが改革したオペラ芸術の世界は、そのようなものだった。

     これまで日本では、まるでソ連共産党の公式的な「社会主義リアリズム」に近い社会批判的な精神をもつ「移動展覧会派」を、19世紀ロシア美術最大の成果のごとく見ていたように思われる。もちろん、長いソ連時代に当局が対外的にそのようなロシア美術の印象を形成してしまったことが大きいだろう。だが、本国ではヴルーベリの生誕100年に当たる1956年にはトレチャコフ美術館で特別展が開かれたようであるし、その後も同美術館の展示から彼の作品が外されたということはない。アンドレイ・タルコフスキーも、彼と『鏡』の脚本を共同執筆したアレクサンドル・ミシャーリンも、ヴルーベリの主要な絵は見ており、彼らの間に友情が芽生えたきっかけもそれだったのだ。詳しくは、拙著『タルコフスキーとその時代』で述べておいたので、興味のある方は参照して頂きたい。

    タルコフスキーとその時代―秘められた人生の真実タルコフスキーとその時代―秘められた人生の真実
    (2011/04/04)
    西 周成

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     日本は「失われた20年」の間に少しはロシア美術に関する印象を変えただろうか。私が記憶する限り、イリヤ・レーピンの著書は邦訳されているが、ヴルーベリやセローフや、ましてやマモントフに関する日本語のまとまった研究や邦訳書は一度も見たことがない。
     トレチャコフ美術館からやってくる作品も、大抵は「移動展覧会派」を中心とする絵画であり、そこにせいぜいクインジの『ウクライナの夜』やクラムスコイの『忘れえぬ人』といった少しロマン主義的な作品が加わる程度で、シーシキンの森の風景にしろ、ヴェレシチャーギンの戦争画やアイヴァゾフスキーの海洋画、レヴィタンのチェーホフ的な地方の風景にしろ、レーピンの『ヴォルガの船曳』やスーリコフ及びヴァスネツォフの歴史画に代表されるような「リアリズム絵画」の印象を打ち消すほどのものではない。

     だが、帝政ロシア最後の四半世紀にモスクワの美術界で花開いた美術は、それらとはかなり異質な、かといって「ロシア・アヴァンギャルド」ほどには抽象化の進んでいない、洗練されていながら気どりの少ない、個性的な美しさを持つ「印象主義」的或いは「象徴主義的」なものだった。前者の代表がセローフとコロヴィン、後者を一人で代表していたのが、天才ヴルーベリである。

     サーヴァ・マモントフは、メセナ活動家というよりは、たまたま事業で成功を収めた熱心なアマチュア彫刻家、オペラ演出家だったと言う方が正しいかもしれない。彼の旧い友人達は、彫刻家アントコリスキーや画家ポレーノフであり、彼の恩恵を被った年下の芸術家達にはヴルーベリの他にコロヴィンやシャリャーピン、ラフマニノフまでおり、あのスタニスラフスキーでさえ彼の影響下に演劇を志したのである。
     マモントフは芸術家達の個人的な「縁結び」の神様でもあった。ヴルーベリの妻となったナジェージダ=ザべラ、ザべラの声にほれ込んで彼女を主役に想定したオペラを書いたリムスキー=コルサコフ、シャリャーピンの妻となったバレリーナ、イオラ・トルギ、彼らは全て、マモントフによって縁が結ばれたのだ。不遇をかこっていたラフマニノフとシャリャーピンの友情もしかりである。
     
     このような人物だったからこそ「モスクワのメディチ」とも呼ばれたマモントフは、今でも忘れられていない。鉄道列車の名前が彼にちなんでつけられるほどである。

     しかし、帝政末期の1900年代になると、もともと芸術の理念だけを支えに集まっていた「マモントフ・サークル」は自然解体に向かい、小説の主人公とその周辺には暗雲が立ち込める。この辺りの「歴史的事実」があまりにも劇的であり、またこのマモントフ・サークルとペテルブルクに新たに登場した「芸術世界」とその立役者セルゲイ・デャーギレフらとの対比が鮮明であるために、私はほとんど史実から離れる必然性を感じなかった。
     歴史は時に、一つの劇的な作品のような群像を生み出すものなのだと思う。或いは、人生の法則(野田高梧の言葉)というものが、元々そのようなものなのかもしれない。葛藤に満ち、矛盾を抱え、挫折と栄光と歓喜があり、その後に凋落や悲哀や運命との和解、孤独な死や救済がある。それが実は普通の人間の一生なのかもしれない。帝政末期ロシアの芸術界は、多くの優れた芸術作品を生み出しながら、そのような人生の法則をも鮮烈に具現していた。

     捏造された「昭和テーマパーク」に類するドラマ性皆無なぬるま湯的な映像作品を作ったり、それを鑑賞したりして満足する人間の精神は、私には何か停滞の極みのように思える。正直言って、そのような世界をすんなり受け入れる人間が薄気味悪いのだ。それはまた、上記のような創作体験があったことにもよるのである。



     
     

    テーマ : 絵画
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    tag : ミハイル・ヴルーベリ キンドル ロシア美術

    なぜその大学人は古典時代の映画を賞賛するのか?

     芸術の世界において、半世紀以上前の傑作群は、もはや素人でも一度は耳にしたことのある常識の域に属する。
     
     プロ(創作家、研究者、批評家)を目指す若い人々は、それらに関して、作品名と作者名くらいは、大衆向けの(つまり中学生か高校生でも分かる平易な)入門書ででも読んでおき、10代後半から20代前半くらいまでになるべく多く鑑賞するべきである。その後でようやく、自分の個性の探究が始まる。
     そして100か200の古典作品を鑑賞した後、自分の適性について改めて考え直すべきである。そうすれば、その後の人生の数年間を無駄に過ごさずに済む。

     動く映像によって物語を語る全ての創作は、古典時代(1930~50年代)の主要な傑作映画を30~50本程度以上は見てから試みるべきである。この時代の古典は、今ではレンタルでも借りられるし500円程度の廉価版のDVDも出ているから、この本数は決して多くはない。30本でもいいのかと聞かれれば、こう答えたい。実は本人の才能次第ではもっと少なく、20本でも10本でもよい。必須なのは、『戦艦ポチョムキン』、『街の灯』、『イントレランス』、『市民ケーン』、『羅生門』、『イワン雷帝』等、誰でも題名を聞いたことのある作品である。

     最初に見るそうした映画群は決してハリウッド映画に偏っていてはいけない。なぜなら、古典的ハリウッド映画が採用している手法や構成のほとんどは、決してハリウッド映画固有のものではなく、またハリウッドの映画作家達による発見でもないからである。
     例えば、“サスペンスの神様”と言われる(本当にそうかは検証が必要だが)ヒッチコックが採用している技法の多くは、1930年代までにロシア映画やドイツ映画において完成されていた。オーソン・ウェルズの『市民ケーン
    』における様々な技法もそうである。嘘だと思うなら、エフゲニー・バウエルの『死の後』(1915)やフリードリッヒ・ウィルへルム・ムルナウの『最後の人』(1924)やフリッツ・ラングの『M』(1931)等を観直してみればよい。

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    ピーター・ローレ

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     “古典的ハリウッド映画”と呼ばれるものは、単に1930年代から50年代にかけて世界の主要映画製作国において、決してアメリカの映画作家だけではなく、同時代の他の国々の作家によっても作り上げられ、規範化されてきた諸技法を、体よくまとめただけなのだ。
     しかも、この時代のアメリカ映画には、日本映画のしっとりとした抒情性も、ドイツ映画やソビエト映画の切れ味のよい社会風刺も欠けており、どこか人工的で偽善的な雰囲気が漂ってくる。日本人はその歴史や風土のせいでアメリカ人ほど楽天的な民族性をもたないため、なおさらそれが強く感じられるはずなのである。ルイス・マイルストンの傑作『西部戦線異状なし』のような例外を除けば、大抵のハリウッド映画にベタに入っているBGMほど、映画におけるリアリズムを損なうものはない。
     
     ところで、なぜ日本の古い世代の大学人は、古典時代の映画を賞賛し、中でもハリウッド映画を特に賞賛するのだろうか?
     私には、利権と政治がらみであるとしか思えない。この場合の利権とはとりもなおさず、大衆受けすること、読者受けすること、そして長老たちの気に入ることである。 政治とは、映画史について無知な同僚達にも分かりやすい学内ポピュリズムや“役に立つ”(ように見える)研究に対する“産学官共同”政策へのすり寄りである。

     ところが、映画史はアメリカを中心に回っているわけではない。

     そして、映画産業はほとんど全ての国において、1990年代初頭から、不可避的な凋落の時代に入っている。
     
     現在の日本は、あらゆる兆候から判断して、ソ連末期からその解体直後のロシアやウクライナに最も近い状況にある。
     あの時代のロシアでは、修士号取得者(日本の修士と違って準博士とも訳され、日本やアメリカにおける博士レベルの実力をもつ)が、研究を捨ててビジネスにその能力を活かした。そして地獄のような90年代を生き延びた。あの時代のロシア映画がどのように凋落し、一部の映画人だけがどうやって生き延びたかを知るためには、私の研究を読むのが最も手っ取り早い(大部なので残念ながらまだキンドル版でしか出せない)。とにかく、日本語ではこれより詳しい現代ロシア映画史は読めない。
     
    映画文化と現代ロシア映画映画文化と現代ロシア映画
    (2012/11/03)
    西 周成

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     おそらく今後10年間の日本で生き残れるのは、事態を絶えず素早く判断し、迅速な行動を行うことのできるような個人だけである。そこでは、偏向的でない一般教養と、軽率さのない行動力と、広範で正確な知識が要求される。人生をこれまでの三倍か四倍の速度で生きなければならない。
     それが福島第一原発事故後の日本で、映画や映像の世界で生きる人々にとっての現実なのである。

    テーマ : 映像・アニメーション
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    tag : ロシア映画 フリッツ・ラング 映画文化 映画産業 古典映画

    映像関係ハウツー本の根本的な間違いについて

     前にも書いたが、シナリオ作法にしろ映像の構成法にしろ、私自身は今の日本で出回っているような“ハウツー本”をわざわざ買って読む必要性は感じたことがない。ただ、大学で教えたり自分の会社で映像作品や映画関連本を出している関係上、映像制作を目指す今の若者がどのような参考書を読んでいるのか知りたいとは思う。

     アマゾンは日本でも最大のネットショッピングモールであるだけでなく、ランキング機能が充実しており、本によっては中味の“検索”も使える。つまり買わずに少し読んでみることができる。

     最近、冨野由悠季の『映像の原則』なる本がよく売れているようだが、レヴューだけ読んでレベルが大体分かる“ハリウッド流”何々などと違って、著者本人が古典的なドラマツルギーやカット割りを踏まえている創作家であることが分かっているから、この本には興味があった。だからアマゾンでちょっと“立ち読み”させて頂いたのだが、正直言って、“最近の若者には、本当にここまでレベルを落として書かなければならないのか”と驚いた。

     私はもちろん、冨野氏の創作者としての実力は認めるし、80年代のテレビアニメシリーズに関しては、ドラマ作りの点で最近のアメリカ製SFドラマなど軽く超えていると思っている(私の個人的な意見だが、『聖戦士ダンバイン』が総合的に見て最も完成度が高い)。80年代半ばの冨野アニメは、高校生でも理解が十分できたかどうかと思うほど、レベルの高いものだった。そして、それは主にドラマ作りの機微によるものであり、古典映画的な規範を順守しているといえる映像構成によるものではなかった
     
     その冨野氏が、冒頭から素人でも分かりそうな、映像による物語叙述の基本を、中学生でも100%理解できる文体で書いているのである。確かに彼独自のリズムに関するこだわりは反映されているようだが、それにしても、いやしくも映像作家を目指す人々に、このレベルから教え始めてはいけないのではないだろうか。

     繰り返しになるが、私は映像作家としての冨野氏の功績と実力を否定するつもりは全くない。劇映画の場合、特に80年代末に再開された『ガンダム』シリーズの映画版の場合には、展開に無理があったりすることは確かである。私が評価しているのは、1年かけて展開するテレビシリーズ、特に80年代のそれである。そこには日本の他のアニメ作家も実写の映画作家も、いまだに超えられないある美点があった。それをひとことで言えば、SF的な、或いはファンタジー的な設定の物語を序破急のリズムで展開させつつ、あらゆる階層出身の様々な思想的背景と性格をもつ人々を、説得力と完結性のある人間ドラマに織り込んでゆく、その卓越した技術である。

     以前このブログでも指摘したように、古典的な映画の規範(それが現在の、動く映像による物語作品全てに応用されている)は、実際にはそれほど多くない。それらは良くできた古典映画を見ていれば自然に身につくはずのものだ。フランク・キャプラでもヒッチコックでも黒澤明でも増村保造でもいい。なるべくドラマツルギ―的な面でも古典的であり、照明も工夫しており、なおかつ長回しは多用しないような1940年~50年代の映画が参考になる。

     多くの実作者が失敗しているのは、少ない規範しか持たない映像の構成ではなく、物語設定でもなく、ドラマ作りにおいてである。説得力のある人間ドラマになっていないのだ。そしてこれこそ、古典的教養が要求される部分であって、若いうちに学ばなければその後は学ぶ機会のなくなる分野なのだ。
     だからこそ私は、自分の講義でアリストテレスの『詩学』は読んだ方がいいと言い、野田高梧の『シナリオ構造論』を参照し、ソフォクレス、世阿弥、シェークスピア、イプセン、チェーホフ、ドストエフスキーに言及している。先人が辿った道をたどらずに済ませることのできるようなハウツー本など、この世にあるはずがないのである。
     

     
     
    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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