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    芸術作品における予見・預言・幻視

     「予言」という日本語は誤解を招きやすい。この言葉は、「予見」と「預言」と「幻視」という、本来は異なる三つの概念を混同させてしまう。

     予見(prevision)とは、具体的な過去の諸事実や科学的知見に基づく、将来起こり得る出来事についての合理的な予想・予測の結果である。預言(prophecy)とは、神的な存在から、ある特定の精神的段階に達した人=預言者にのみ伝えられるとされる、神の言葉である。最後に幻視(vision)とは、天使やデーモン(堕天使)等、超人間的な存在によって見せられる映像である。

     この三つの言葉を、宗教的に解釈すれば、そのように言えるだろう。徹底した合理主義者で科学的知見しか信用しない人ならば、最初の一つを「予知」とし、後の二つを妄言や譫妄として片づけてしまうだろう。

     芸術の歴史は、「幻視」が単なる妄想や幻覚の類ではないことを示している。「虫の知らせ」で命拾いする人々が現実に存在するのと同様に、「幻視」を通じて創造する芸術家も確かにいる。彼らは覚醒しながらそれを見る。それが、俗に言う「霊感」を与えられた状態なのである。
     その時、ヴィジョンは必ずしも支離滅裂な幻覚のようなものとしてではなく、他者が参入する余地のある、というよりも映画などの場合にはむしろそのような他者の参入を完成のための必要条件とする、イメージの聖堂のようなものとして現れる。私はそのような作品を、宗教的芸術(或いは精神的芸術)と呼ぶ。

     ハードSFやシミュレーション小説と呼ばれるジャンルは、実に見事に未来の出来事を「予見」することがある。だが、それらは特定の時期を過ぎると、「賞味期限切れ」の状態になる。予見された事態が現実のものとなった場合や、現実がシミュレーションとは別の道筋をたどった場合、その予見は「役割を終える」からだ。

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     イメージの聖堂として残された「幻視」すなわち、精神的芸術作品は、その作者が属する民族や彼らの信じた恒久的価値が消滅するまでは、いつまでもその役割を終えることがない。そのような作品は、世俗的なものに浸食されることのない高貴な美をもっている。そのような作品の美は、合理主義的な見方をすれば希望はもうないと思わせる状況に置かれた人々に、自らの犠牲の意味を肯定的にとらえたり、希望を与えることさえありうる。
     
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    映画美と宗教的ヴィジョン―ブレッソン、パラジャーノフ、黒澤明

     日本の映画ファンの多くは、おそらく、これまで日米(及び英語圏、香港等)の“商業映画(エンターテイメント、ジャンル映画)”と、主にヨーロッパの“アートハウス映画”、そして、権威ある(ことになっている)批評家達が推奨する“作家映画”という3つに、あらゆる映画作品を区分けしてきた。

     というよりも、不合理にも、これら3種類に区分された映画作品群を、あまり相互理解も交流もない3種類の観客達が、意地になって擁護し続けてきた。

     そのように思われる。
     これは非常に不毛なことである。

     そのような区分に慣れた、或いはそれが当然だと考える大半の映画ファンは、私がブレッソンとパラジャーノフと黒澤明の名前を、「宗教的ヴィジョン」というテーマのもとに並べることに、非常な違和感を抱くに違いない。
     だが、全ての先入観を捨て去って、彼らがその晩年に到達した映画的ヴィジョンを静かに鑑賞することができるならば、私の言葉への違和感は消えるに違いない。

     ブレッソンについては、この作家の全作品を見た人には何も説明の必要があるまい。

     だが、パラジャーノフと黒澤明の場合は、多少説明が必要だろう。
     
     いや、説明は本来、必要ないのだ。彼らは作品をして、全て語らせているのだから。

     次の作品を何度も、冷静かつ作者への信頼をもって、見直せばよいだけの話だ。

     『ざくろの色』
     『スラム砦の伝説』
     『乱』
     『夢』
     『8月の狂詩曲』
     
     彼らが上記の映画で提示した物語は、内容的には難解ではない。作品の理解のために、どうしても参照すべきテクストがあるわけでもない。
     ただ、作中で登場人物たち話す言葉と、そこに登場する数々のモチーフと、音楽が与える印象をその都度忘れず、そのまま物語を追っていくことだ。すると、そこに彼らの映画作品に埋め込まれた宗教的ヴィジョンが、自然に浮かび上がってくる。
     そのように構成されている。それは天才だけがなしうる業である。

     それが見えない人は、まだ人生経験と思索が足りないのである。
     とりあえず、今はそれだけ述べておく。

     このテーマに関して一定以上の需要があると思えば、私はまた本を書くだろう。

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    宗教芸術とポリフォニー性

     ある程度以上の文化的教養がある人ならば、バッハの『マタイ受難曲』やドストエフスキー或いはトルストイやトーマス・マンの晩年の諸作品が、単にキリスト教的なモチーフに基づいているというだけでなく、民族や人種を越えて全人類を視野に収めたような高所から人の罪や魂の救い、人の内なる善と悪について語ろうとしていることに異議を唱えることはできないだろう。

     かつてキリスト教に限らず全て宗教と名のつくものは、神話や伝説を語る聖典や口承のほかに、信徒に対する行動の規範と、神殿や寺院を飾ったり儀式の荘厳さを増すための美術・建築・音楽の規範をもっていた。個人の人格や個性は、それらの規範に従属すべきものとされた、そのため、宗教が民衆の世界観でありえた中世以前には、近代人が「芸術」と呼ぶものは、まだ萌芽的にしか存在しなかった。

     ヨーロッパでも日本でも、中世までの「宗教芸術」は、世俗的な芸術と異なって創作家の個性の表現とは見なされていなかった。だからその作者達は多くの場合、無名である。作者の名前を後世に伝えることの意味は、少なくとも同時代人の意識にはなかったからだ。
     タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』で「物質文化」のコンサルタントであった故サーヴァ・ヤームシチコフによれば、ロシアのイコン画家アンドレイ・ルブリョフの真筆とされる絵は、厳密に言えば一つもないという。
     生前のバッハの名声は、オルガン奏者としてのそれであった。作曲家としては死後間もなく忘れられ、少数の専門家が知るのみとなった。彼の宗教音楽の中で最も劇的でかつ崇高な『マタイ受難曲』が、初演から約100年後にフェリクス・メンデルスゾーンによって再演されるまで、顧みられなかった話は有名である。

     かつて宗教芸術は、地上の宗教的権威からの依頼によって無名の匠が作った。だが、19世紀以降の宗教的芸術は、創作を職業とする個人の手によって作られた。そこでは程度の差はあれ、創作家と地上の宗教的権威との間に、思想的な葛藤があった。地上的権威と葛藤し世俗的なしがらみにとらわれながらも、作者の創作自体が特定の宗教的教義に深く根ざしていたことにより、ドストエフスキーやトルストイの小説には複数の「声」が存在することになった。彼らは様々な階級や思想的立場の人物たちを「描写」しただけでなく、彼らの精神を共感をもって「模倣」しつつ「語る」ことができた。

     文芸学(文学理論)において「ポリフォニー的」小説と呼ばれるものが発展したのも、19世紀である。「ポリフォニー小説」の概念は、ミハイル・バフチンによるドストエフスキー論において提唱されたものだが、トルストイやソルジェニーツィン等、他の多くの作家たちの長編小説にもポリフォニー性が観察できる。イデオロギー的に異なる立場を表現する多数の「声」が対等性をもって共存するというバフチンによるポリフォニー小説の概念によるならば、彼らの小説は通常の意味での「宗教芸術」ではありえない。宗教は「異端」の存在を基本的に許容しないが、彼らの小説では多数の世界観、思想の対等な存在が許されているからである。

     宗教芸術は本来、バフチン的な意味ではポリフォニー的でありえない。バッハの音楽がポリフォニー的なのは、あくまでも音楽学的な意味においてである。私はバフチン的な意味におけるポリフォニー性が映画や演劇の世界にも適用しうると考え、かつてそれを「物語的ポリフォニー」(narrative polyphony)と名づけた。この物語的ポリフォニーは形式的には、複数の語り手の対等な共存によって成立する。劇映画の場合は、物語世界がそれら複数の語り手たちによって様々ななニュアンスを帯びて変容していく。

     19世紀と20世紀という戦争と混乱の世紀に、従来の宗教芸術とは少し異なる「精神的な」芸術が、世俗的な芸術ジャンルの「内部」から生まれてきたという気がしている。ドストエフスキーの長編小説などはむしろそちらに属している。私はそのような「精神的な」芸術が、人類の非常に貴重な達成であると考えている。

     ポリフォニー的な物語芸術は、映画の場合には同時に音楽的なポリフォニー性を帯びることもできる。小説の場合、作者がどれほど信仰をもった人間であっても、ポリフォニー的作品それ自体は思想的に「八方美人」で終わる可能性が高い。ソルジェニーツィンの『煉獄のなかで』などは、私にはその典型であるように思われる。
     読者にとっては「読みの自由さ」を保証するそのような作品は、宗教芸術に特有の崇高さを感じさせることが稀である。だが、映画の場合には、思想的には様々な解釈に開かれていながら、崇高さを呼び起こすことが可能である。映画は音楽的ポリフォニーを同時に達成することによって、それを成し遂げるのである。
     
     具体例を挙げた方が話は早いだろう。次の諸作品を、鑑賞しつつ、上記の観点から分析してみるがよい。

     アンドレイ・タルコフスキー『鏡』、『アンドレイ・ルブリョフ』
     ロベール・ブレッソン 『スリ』
     黒澤明 『乱』

     参考までに、次の諸作品も観てみるがよい。

     スタンリー・キューブリック『バリー・リンドン』
     スティーヴン・ダルドリー『めぐりあう時間たち』
     アラン・レネ『ミュリエル』
     アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ『21グラム』

     映画という芸術は、ポリフォニー性という点ではまだ、たったこれだけの成果しか挙げていない。

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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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