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    エネルギー問題と原発再稼働議論を“科学的”に整理する

    はじめに

    原子力が、“環境にやさしい”“経済的な”エネルギーだという言説は、実はとっくに破たんしている。
    そのことは、今更私が解説するまでもない。

    だが、いまだに地球温暖化への切り札だとか、資源のない日本は原子力に頼らざるを得ないとか、“抑止力”になるとかいう言説を真に受けている人々も少なくないようなので、専門ではないが常識の範囲で整理したい。

    まず、原子力を“再生可能エネルギー”と対立させる思考自体が間違っていること、温暖化は二酸化炭素だけにその罪を着せるべきものではないこと、つまりこの両方の言説が全く非科学的であるこという認識から、全てはスタートしなければならない。

    再生可能エネルギーはそもそも存在しない

    “再生可能”なエネルギーなどというものは、そもそも発見されていないし、それが存在する可能性もない。全てのエネルギーは、再生不可能である。水力発電はダムを作って水を高所から低所に落とすことで、タービンを回す。風力発電は、太陽の放射熱によって地球の大気に温度差が生じて風が発生することを利用している。火力発電は、太古に太陽光線で光合成をして成長した樹木やプランクトンの化石を燃やして水を蒸気に変え、タービンを回す。原子力発電は、ウランの核分裂によって発生する熱で水を水蒸気に変え、タービンを回す。いずれの場合も、一度使ってしまったエネルギーが元の状態に戻ることはない。太陽光発電もそうである。発電に用いるエネルギーは熱として拡散されるか、他の形になるかしてしまって、決して“再生”はされないのだ。

    地球環境に優しい“クリーンな”エネルギーがあるとすれば、それは、絶対に再生されるはずのないエネルギーを、なるべく生物学的、物理学的な現在の地球の状態を損なわないやり方で利用するものである。

    すなわち、水力(雨はいつでも降っていたし、これからも降り続ける)、火力(二酸化炭素は植物の光合成に必要だし、これからも必要である)、地熱(火山やマグマはこれまでも地下で活動し続けてきたし、これからも活動し続ける)、風力(風は地球に大気がなくならない限り、吹き続ける)、太陽光(太陽はあと数十億年は燃え続ける)である。これらが真のクリーンエネルギーなのだ。

    あとはこれらの発電形態を、これまでより更に効率化することだが、既にその技術はかなり普及している。すなわち、“コンバインドサイクル火力発電”と、“コジェネ”と呼ばれるものだ。

    地球の温暖化は、二酸化炭素のせいではない

    “クライメート・ゲート事件”でネット検索すればすぐに誰でも調べられると思うが、これは福島第一原発事故が起きる以前の事件であって、2010年頃の書物にも書かれていることである。
    この事件の要点は、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の喧伝してきた、二酸化炭素の増加による地球の急激な温暖化が、実はデータの意図的な誇張による“でっちあげ”であったということにある。
    実際、人類の歴史が始まってからでも、現在よりずっと温暖だった時代はある。中世である。1970年代に、さかんに地球の寒冷化について論じられていたことを記憶している方もいるだろう。私の住んでいた北陸ではほぼ毎年大雪があり、「三八豪雪」の記憶も生々しかった。“三八”とは昭和38年(1963年)のことである。二酸化炭素による温暖化説と、1960年代前半の豪雪とは、一体どう結びつくのか? そして、ここ数年のヨーロッパにおける冬の極端な寒さは、“科学的”にどう説明がつくのか?

    近年温暖化しているのは、実は都市部だけである。原因は、“ヒートアイランド現象”すなわちクーラーなどの使い過ぎによる、局地的な高温化である。私が小学生だった1970年代半ば、日本でのクーラーの普及率は今よりずっと低く、地方都市でクーラーが入っているのは10世帯のなかで一軒程度か、それ以下。ヒートアイランド現象などおきるはずがない。伝統的な木造日本家屋には、汚染されていない涼しい風が吹き抜けていた。団扇と扇風機、そして畑で育った西瓜が、夏らしい風物だった。今、内部被曝のリスクを感じずにそのような生活ができる地方都市が、どれくらい残っているのか?


    核による“抑止力”神話の破綻と人類全体の危機

    核保有による抑止力、という考え方は冷戦時代の遺物である。今、核戦争を本気で起こそうとする国はない。だが、軍人や政治家の中には、自己を国家と同一視し、一体化し、その力を誇示したいという偏執狂的な執念をもつ人々がいる。核保有による抑止力というコンセプトにこだわるのは、そのような人々であり、彼らが不幸にもヒトラーやゲッベルスのように“国民の心をつかむ”弁舌に長けていれば、それは人類の存亡にかかわる。しかし幸いなことに、現在は情報が国境を越えて一瞬で伝わってしまう。だから、コンプレックスで性格が破綻した偏執狂の出番はない。

    北朝鮮は核兵器を持っているかもしれない。イスラエルは持っている。だからイラクも持とうとしたのだ。しかし、“世界の警察”を気取ったジョージ・W・ブッシュは、イスラエルのことは問題にせずイラクや北朝鮮だけを“ならず者”国家と見なした。そしてアメリカという国自体は、原子力産業の技術を、日本に輸出し続けた。
    原子力の“平和的利用”だと言うが、商用原子炉で原爆用のプルトニウム製造やトリチウム製造が可能であること、そして実際にそれが行われていることは、少しこの問題に関心のある人なら知っている(知らなかった人は、次の良書を参照。ステファニー・クック著『原子力 その隠された真実』、飛鳥新社刊、2011年)。

    ある自民党議員は、福島第一原発事故の後、真顔でインタヴューに答えてこういった。「日本が原発をもつことは、抑止力としての意味もあるんです。今現在、原爆をもっていなくても、作ろうと思えば半年以内に作れるんですから」。これが推進派の多くの本音である。

    ところで、この議員やその他の“愛国的”著述家・政治家達は、本当に原子力産業の裏の歴史や、海外の核燃料サイクル施設の失敗や、被曝の現実や、汚染による第一次産業の被害や、あと一歩で大惨事になりかねなかった数十の事故を知っているのだろうか? おそらく、何も知らないのだろう。知っていてまだこんな言説を弄しているとすれば、狂人である。何しろ、国土を地雷原と不毛の地に変えようというのだから。

    チェルノブイリ原発事故以来、フランスでもアメリカでも、原発や再処理施設での事故は頻発している。ただ、それを公表すれば原子力産業の利権が損なわれるので、関係者(IAEAを含む)がほとんど公表しないだけである。つまり、核保有による抑止力説を唱え、それを理由に原発を推進しようとしている人々は、科学的思考もリサーチ能力も欠いた間抜けだけである。自分が特定の産業界に利用されていることにすら、気がつかないのだから。


    なぜ科学者・経済学者・政治家・マスコミはうそをつき続けたのか?

    これも私が説明するまでもなく、賢明な読者はとっくに知っているであろう。要するに彼らが守りたいのは、利権であり、既得権益であり、収入源である。そして、そこに科学的な思考など介在する余地はない。彼らの頭にあるのは、円、ドル、ユーロ、ポンドなどの通貨と、虚業で得た無意味なプライドと、非人間的なエゴイズムだけだ。

    そんな連中を信じてついていくのは、最も愚かな人間だけである。私はそういう人々を“愚民”と呼び、“ブロイラー”と呼んでいる。


    生き延びた者だけが、何かを成しうる。

    この国はもうほとんど終わっていると、個人的にはそう感じている。
    だが、“ほとんど”は、“完全に”ではない。

    “完全に”終わらないように、できることはまだある。

    啓蒙がその一つである。啓蒙とは、欧米語では光を当てるという意味であって、要するに知識の共有だ。
    より多く知識を持っている人が、時間的・精神的余裕がすくないために十分な知識を得られなかった人々を助けるだけである。別に誰もコンプレックスを抱く必要はない。

    そしてもちろん、被曝を避けて、遺伝子及び自分の生命を守ることである。
    日本の国土はかなり汚染されている。ある地域では、あと何世代も生活することができない。チェルノブイリ級の“レベル7”の原子力災害とは、そういうことだ。

    私はウクライナを2度、訪れたことがある。首都キエフでさえ、ロシアよりも復興が遅れていた。そして、若々しさがなかった。若い人々から死んでゆくというのが、低線量被曝、内部被曝の恐ろしさだ。
    そして、年をとった人間は、遠からず死ぬ。

    専門分野で言えば、ウクライナ映画は、ほとんど壊滅している。近年『オーロラ』という映画があったが、これはチェルノブイリで被曝した少女を主人公とする、悲しい劇映画だった。キラ・ムラートワは高齢で主にロシアからの資金で創作している。

    ロシアと違って、ウクライナに国際的に評価される若い映画作家はいない。希望が少なく、生物学的に衰退したからであろう。その原因は、誰もが知っている。


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    別の生活のための“別の映画”

    Youtubeでも公開している作品ですが、FC2へアップロードしたものを引用します。

     私はこれを、Cine-poemと規定しています。こうした実験的でしばしば社会的テーマ性をもった短編・中編映画は、サイレント末期からトーキー初期にかけて、フランスやロシア、ドイツでかなり制作されました(ミハイル・ツェハノフスキーの『パシフィック231』、ハンス・リヒターの『インフレーション』等)。
     戦後にもジャン・ミトリやリヒター、マヤ・デレン他の多くの映画作家が、短編映画によって映画的表現に新しい地平を開拓しています。短編映画はアートハウス映画の伝統の一支流として根付き、ソクーロフの一連のドキュメンタリー作品に連なっています。

     インターネットによる映画配信が普及しつつある今、長編よりもむしろ短編、しかも劇映画やドキュメンタリー映画の世俗的な規範に縛られない、詩的連想に基づく短編映画が、徐々に市民権を得ていく可能性は高いでしょう。
     
    “別の生活”とは、文化や文明に別のあり方を探る試みであり、そこでは物語や言説の感覚的で一時的な消費ではなく、人間の創造性や想像力を刺激するような「別の映画」が求められていくでしょう。全ては今、始まったばかりです。

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    遠くて近い映画と食べものの関係

     映画やテレビドラマの中で、食事シーンや食べ物を作る過程がどのように演出されているかを、研究や批評の対象にした人はほとんどいないだろう。劇映画の場合、このテーマが職業的な映画レヴュアー以外には無縁だった理由は簡単に推測できる。
     
     劇映画は、主に演劇の伝統的なドラマツルギ―と、19世紀的な長編小説とを、構成原理として参照しながら発達してきた。そして、アリストテレスに始まる西洋のドラマツルギーにしろ、日本の代表的なドラマツルギ―である能作書にしろ、最も日常的でドラマ的な緊張感とはほとんど無縁な食べものに関しては何も語っていない。19世紀的な長編小説でも、あくまで写実主義における一ディテールとしてしか扱われていない。だから、それらを参照しながら劇映画の技法や構成が急速に豊かになっていった1920年代~40年代には、“食べ物”のような二次的なテーマに、映画の創作家達は関心を払わなかったのである。

     映画が食べ物に関心を示し始めたのは、スタジオ・システムの全盛期が終わってからである。オタール・イオセリアー二の『落葉』は、グルジアのワイン製造工場における若者と年長の上司達との、仕事に対する誠実さをめぐる葛藤を描いている。まだそこではワイン醸造という“労働”への比重が高い。同じイオセリアー二作品でも、90年代以降、フランスでしか劇映画を作らなくなってからのものは、そうした社会的テーマが背景に退いていき、例えばワインという食品への愛情が前面に出てきたりしている。

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     しかし、劇映画にとってそのような食べ物への関心は、ドラマ性の希薄化を伴う(ドラマというものは、古典的なドラマツルギーの根を断ち切れないからだ)。例えば、延々と続く食事や宴会のシーンは、それだけでドラマとは異質な動物的「生」の無批判な肯定を暗示することになるだろう。そこでは、作者がよほどの天才ででもない限り、一種の退廃感が伴う。フェリーニは『サテリコン』で、ピーター・グリーナウェイは、『コックと泥棒、その妻と愛人』で、その効果を意識的に利用した。

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    ドラマ性の停滞がもたらされるだけでなく、作者の生への執着の度合いがもろに出てしまうのが、食事や料理にまつわるシーンの演出である。日本映画では、後期の小津安次郎の作品以外は、食事へのこだわりゆえの失敗作が多い。劇映画は今のところ視覚的な美とドラマ的な構成の巧みさとに重点を置く芸術の領域にあり、それを娯楽として楽しむ観客でさえ実は無意識にそれらを求めていることを知らない作者が多い、ということだろう。映画のタイトルに飲食店の名前とか特定の食品名を使うのは、実に無邪気というか、下品である。

    ドキュメンタリー映画と食べ物の関係は、劇映画より広く自由であり得る。『フード・インク』のように形式は古臭くとも啓蒙的な意義のある作品もあれば、『いのちの食べ方』のように淡々と説明なしに「事実」の美的記録に終始しているものもあるが、映画作品としてはどちらも十分成立している。


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     ドキュメンタリー映画には、サイレント時代から即物的にジャーナリスティックな関心と映画美の追求とが併存していた。だからこそ、ソ連でもナチスドイツでも、優れたドキュメンタリー映画作家ほど独裁政権を強化するためのプロパガンダ(現実の歪曲による)に利用されてしまうという矛盾も生じた。勿論、当時は映画が唯一の映像マスメディアであったという事情もある。
     現代の食べ物に関するドキュメンタリー映画は、権力者によるプロパガンダの効果を打ち消し、彼らが隠したがる別の側面を見せている。それらは食べ物にこだわりを見せる劇映画とは逆に、観客の食欲をある程度まで削ぐだろう。だが、これらのドキュメンタリー映画は、一般の映画観客や消費者が知るべき、現代社会における食糧寡占、食物汚染と格差拡大の関連性を、分かりやすく示してくれる。それは啓蒙的な意義においても、時には映画的手法においてさえ、ジガ・ヴェルトフが「映画真(キノ・プラウダ)」と呼んだ理念に近いと言えるだろう。
      
     
    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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