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    “映画的イメージ”をシステム思考で読み、創ること

     日本の“知識人”のほとんどは、動く映像をそれ自体として、映像と音によるイメージをそれ自体として“読解”する訓練を積んでいない。文字になったものなら精緻きわまりない“軽やか”な読解をして見せる人々でさえ、実際には映像をスチル写真のように“静止させて”からその細部を愛でたり、読解したりしている。

     或いは、劇映画の場合には“物語”という、文字で表しやすい形にしてから解釈する。
     素人ならそれでもよい。だが、研究者や創作者はそれではいけないだろう。
     
     映画的イメージは
     ①運動するものであり、
     ②上映時間の範囲内で構成されているものであり、
     ③並行する意味の系列を持つものであり、
     ④鑑賞中の観客の記憶に大きく依存するものである。

     これは劇映画でもドキュメンタリー映画でも同じことである。映画は、最低でも上記の4つの点を考慮して作られるべきものなのだ。
      映画の脚本と小説との最大の違いも、おそらく上記の4つの要因から生じる。小説では“並行する意味の系列”は作れない(詩ならば可能だが)。また、小説は読者の記憶にはほとんど頓着せずに創作される。前に書かれていたことを“覚えていない”のは読者が悪い、ということになる。だが、映画ではそうはいかない。通常は2時間ほど、長くてせいぜい3時間程度の鑑賞で、観客が何かを「覚えていない」とすれば、意図的にぞんざいに(サブリミナル的に)示されたか、下手に示されたかのどちらかだ。
     劇作上の“性格描写”とか“起承転結”はさておいても、表現としての映画は、この4つを無視しては成立しないだろう。
     
     映画史には必ず登場する“ソヴィエト・モンタージュ派”は、上記の4つの要因の全てを潜在的に含んでいる。ただ、その提唱者達、特にエイゼンシュテインは、これを必要以上に難しく考えていたかもしれない。
     
     現在では、モンタージュ理論の大部分はより平易に説明し直せるであろう。平易に説明すれば実作にも役に立つのが彼らの理論である。モンタージュ理論は、自然発生的な「システム思考」の産物である。そしてこの思考は、現在、ますます多くの領域で採用されている。だから理解しやすいのだ。
     一方、同じ頃に登場したフランスのフォトジェニー論に関しては、歴史的な研究対象としてはともかく、実践的な価値はないことがはっきりしている。哲学なら別に映画をネタにしなくともできる。

     モンタージュ理論とフォトジェニー論の対照的な性格は、拙著『映画の構成とドラマツルギ―』の第二部でも触れている。この本は徹頭徹尾、実践的である。但し、“教科書的”ではない。

    現代映画 構成とドラマツルギ―現代映画 構成とドラマツルギ―
    (2013/10/08)
    西 周成

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    tag : ドラマツルギー キンドル

    『現代映画 構成とドラマツルギ―』キンドル版発売

     以前にPDF版を「別の生活ストア」から販売していた独習用テキスト『現代映画 構成トドラマツルギー』の増補版をキンドル限定で刊行した。詳細は下の画像リンクからアマゾンの商品ページに跳べば確認できるので、関心のある方は見て頂きたい。キンドルを持っている方は最初の部分を無料で試し読みできるようだ。
     価格は以前のPDF版より少し安い。これはキンドルの端末がそれなりに高いためと、米ドルで初期価格を設定してそれが日本の価格に反映されているからだ。ドルが下落したら日本円で固定価格にしたい。
     
     内容の方はコンパクトだがかなり多面的であり、今回加筆された第二部には、古典的な映画理論の解説と映画史的な文脈、映画的ヴィジョンに関する考察も含まれている。いわゆる“カット割り”から映画作家のスタイルを比較分析したりもしているが、あくまでも創作・研究をこれから“志す”人々のために書いたものであり、学術論文ではない。


    映画・演劇における性格描写と構成

     ドラマツルギーの古典であり、欧米の演劇、映画そして小説の創作に携わる者が必ず参照していると思われるアリストテレスの『詩学』には、まるで後世の『ハムレット』に関して述べられたかのような一節がある。曰く、「悲劇は行為なしには成り立ちえないが、性格がなくても成り立ちうるであろう」(『詩学』第六章二十)。アリストテレスが「悲劇」と呼んでいるのは、今日の「ドラマ」のことだと考えていいだろう。彼は、筋があれば主人公の性格がなくともドラマは成立しうると言っているのだ。
     これは近代演劇における所謂「リアリズム」の指向、およびそれを継承した「シリアス」な劇映画の路線とは全く異なる考え方である。

     シェークスピアの『ハムレット』の映像化が難しい理由の一つは、主人公の性格が実際に「分からない」からである。少なくとも、19世紀の演劇や長編小説に代表され、20世紀には商業映画や大衆小説でも当然視された、言動の心理学的な一貫性や一定の世界観ないし思想が、ハムレットという人物には見出し難い。彼は「優柔不断」なのか(オリヴィエの映画ではそう断言されているが)、それとも「トリックスター」的な人物なのか、或いは(タルコフスキーが演出した際にインタヴューで語ったように。下の動画を参照、ロシア語)父の復讐などが問題ではなく、彼は歴史のプロセスにおける「触媒」の役割を果たしたのか。

     歴史における個人の役割という観点からこの戯曲を見たとしても、演出において性格描写の問題は避けて通れないはずである。なぜなら、現代の映画や演劇の観客は、古典芸能を見る場合を除けば登場人物への共感や感情移入という体験を求めており、その際に性格の欠如は登場人物を「理解不可能」にしてしまうからだ。だからこそ、オリヴィエもコージンツェフも『ハムレット』のテクストを全て映画に利用しようとはせず、自分達のイメージに合わせた「ハムレット」になるまで、それを刈り込んだのだ。

     近代は、自然科学の発展を可能にした合理的思考が社会の隅々まで浸透した時代である。現在のIT時代がその究極的な成果だと私は言うつもりはない。今よりも更に合理的思考と科学的知識が普及することもあり得るし、グレッグ・イーガンのある種の小説は、作者が意識してかせずにか、それを当然のごとく描いている。この短編集に収められた「ユージーン」がその好例である。ここに登場する「下層労働者」夫婦の科学リテラシーの高さに不自然さを感じるのは、多分私だけではないはずだが、それでも私は、未来社会ではそのようにならないと断言するつもりはない。何しろ、近代以降の人類の科学技術の発展は、生活の利便性だけでなく我々の生命への危機の多様性と複雑さも、飛躍的に増大させたのだから。



     近代以前の(ヨーロッパではルネサンスからバロック時代までの)戯曲には、確かにアリストテレスの言うように性格描写に重きを置かないものもあり、それは今でも映像化されたりするが、基本的には近代以降とは異なる世界観のもとに作られたと考えるべきだろう。
     シェークスピアは、ルネサンス時代から近代への移行期に創作した。当時の演劇の規範は、まだ現実社会における諸々の事象を反映することによる真実らしさの追求には向けられていなかった。シェークスピアに限らず、フランス古典主義演劇でもそうだが、台詞は装飾過多の韻文で書かれ、題材は歴史的過去や神話・伝説から採られた。 現在のジャンル映画等で性格描写が薄いのは、部分的には、それが神話的・伝説的な物語内容やプロットを持つことによると言えるかもしれない。波乱万丈のストーリーや、所謂「アメリカン・ドリーム」を具現したようなサクセスストーリーは、全て「リアリズム」でも心理主義的でもない。そして、それらの多くは、時代が変わって社会の価値体系が崩壊すると、懐古趣味の中高年層以外には見向きもされなくなるという共通性を持っている。最も長く命脈を保てるのは、最も非現実的なジャンル、つまりファンタジーやそれに近いSFである。もっとも、それらにしたところで「名作」として残る保証はない。可能な解釈の幅が広い作品ほど長く鑑賞され続けるであろうが、既存の神話や伝説や社会通念がそのような解釈の幅を与えてくれるわけではない。解釈の幅は、作品が多層性を、つまり複数の基準(規範や美学)から見た一貫性を備えていることから生じる。

     演劇や小説や映画の歴史から分かるのは、一度それらが通過した段階は、後で忘れられることはないということである。自分が通過した段階を忘れたり、また通過してしまった段階に固執し続けたりした創作者や芸術ジャンルは、衰退を免れない。シェークスピア劇の後にはイプセンチェーホフの近代演劇があり、それらの後に古典時代や現代の映画がある。近代演劇の経験がパブストやアントニオーニやベルイマン、ジョセフ・ロージー、タルコフスキー等に少なからぬ影響を与えたことは、性格描写を決してないがしろにしない彼らの作品から分かる。タルコフスキーなどは演劇のフォルム形成要素を「性格」だと述べていた(『映像のポエジア』)。だから彼の『ハムレット』の演出も、ケネス・ブラナーのような原典至上主義ではなく、近代演劇の経験を踏まえた上での個性的解釈だったと思われる。

     イプセンチェーホフが現在でも古典であり続けているのは、それらが「多層的」であるからだ。イプセンの性格描写は心理主義的であると同時に、象徴主義的でもある。チェーホフの戯曲には性格が不明瞭な人物も登場するが全員ではない。登場人物がそれぞれの強迫観念にとらわれつつ信念も希望も持てない状態に置かれていることが、性格が不明瞭に見える原因かもしれない。そしてイプセンの場合と同様に、リアリズム以外に象徴主義的な要素が重なっている。
     
     戯曲は、小説に比べて通常遥かに短い。『ヘッダ・ガーブレル』のような四幕物でも一日あれば楽に読了できるし、例外的に長大な『ハムレット』のような戯曲でさえ、文庫本で上下巻に分かれているような長編社会派小説等よりははるかに早く読める。小説家が一番犯しやすい間違いは、おそらく、簡潔さの美徳を忘れて、どんな構想からでも19世紀ロシア文学のような長大な作品を作ろうとすることである。
     幾らでもディテールと内面描写を積み上げられるのは確かに「創造神(デミウルゴス)」として気分の良いものなのかもしれないが、私の場合は読むのも書くのも長すぎると単純に飽きる。ドラマ的な緊張感の持続するドストエフスキー作品等は例外だが、原則として、描写はなるべく簡潔に願いたい。簡潔さから詩的な余韻というものも生じるだろう。重厚長大よりもむしろ構成の完璧さを目指すべきであり、ヴィゴツキーが『芸術心理学』の中で分析したブーニンの短編などはその好例だ。

     そもそも劇作家達や映画の脚本家達には、必要以上に長大な作品を創造する贅沢は許されない。アリストテレスの時代から変わらない観客が耐えられる鑑賞時間の生理的限界があり、また、映画産業全盛期にもちゃんと意識されていた制作費の限度というものがあるからである。3時間以上の映画に「インターミッション」があるのは、偶然ではないのだ。

    ドラマ的な創作の参考になる文献は、次のアマゾン・インスタントストアにまとめてある。
    http://astore.amazon.co.jp/altblog01-22

    tag : ドラマツルギー ハムレット イプセン チェーホフ 詩学

    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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