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    民族主義者を待ち受ける罠: 世界システムの転換期と“普通人”の運命⑨

     世界史を振り返ると、政治的指導者が一般民衆を動かす道具としての民族主義は、ごく最近現れた思想であることが分かる。それは“帝国主義”の時代つまり19世紀の産物である。日本のような“疑似”単一民族国家の国民は、“国家”(nation)“民族”(ethic group) とを同一視しがちだが、両者の間に必然的なつながりはない。以下にその理由を、中学生にでも分かるように説明する。安倍首相の言う「美しい国」という言葉を信じた人々も、たまにはこのくらいの少し長い文章を読むことで、頭を冷やして頂きたい。

     歴史上も、そして現在でも、世界のほとんどの国家は多民族国家だった。だが、近代になるまで“民族”の概念は現れなかった。少数民族と呼ばれる人々は、自らが国家建設の主体となり異民族を支配しなかった場合には、“国家”などなくとも部族単位で自給自足できる先祖伝来の生活様式を守っていた。近代以降、国家に取り込まれてそこで暮らし、近代的な物質生活を送ってきた少数民族は、あれこれの不満はあったにせよ、宥和政策や同化政策に従う限りは生活が保障された。彼らをそそのかして新たに“国家”を建設させようとしたのは、やはり多民族国家である敵の大国だった。

     19世紀の帝国主義列強には、資本主義システムの構成要素としての“陰謀的諸構造”が既に形成されており、システムの管理者達にとって民族主義とは、自分達の目的(無限の資本蓄積と権力の獲得)を達成するための道具の一つでしかなかったのである。

     異民族に対する宥和政策、同化政策は、近代以前からあった。歴史上の大帝国の賢明な支配者達は、その有効性を知っていた。支配民族と被支配民族の区別があった場合でも、強大な帝国が100年以上存続するためには民族間の宥和や同化が必須だったのである。ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国が言語も宗教も変えて独自の文化と政治・経済システムを構築し千年も存続したように、支配民族そのものがその“民族性”を変容させることで、“国家”が置かれた新しい地政学的状況に適応することさえあった。

     東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の例は、僅か12年で壊滅したヒトラーのナチス・ドイツと全く対照的である。東ローマ帝国の支配者達は自分達をローマ帝国の正当な後継者と感じながら、ラテン語ではなくギリシャ語を公用語とし、ローマの多神教ではなくキリスト教を国教とし、イスラム教徒の国と戦争を繰り返しながらも彼らとの貿易や外交(話し合いによる解決)を続けることに矛盾を感じなかった。一方でヒトラーは、政権に就く前から東欧のスラヴ諸民族を「劣等人種」として奴隷のように扱い、ロシア人の大半は虐殺する計画だった。しかも彼はその思想を『わが闘争』の中で公言していた。敵の大国(ソ連)は当然これを警戒したし、スターリンは対独戦が不可避だと知って、約10年間でソ連の経済と工業技術、軍事力を先進工業国並みに高めてナチス・ドイツの脅威に対抗したのである。
     
     民族主義(ethnic nationalism)はしばしば、ある民族を総動員するために国家と民族とのつながりを神話的な物語によって強調する。本来は必然的なつながりのない国家と民族とを一体化させるためには、そういう反理性的なやり方が必要なのである。勿論、そこには歴史的な根拠などないし、反理性主義的な思想に基づく一時的高揚は、経済面であれ軍事面であれ、より強力な多民族国家との対決によって、たちまち雲散霧消せざるを得ない。精神主義によって戦争に勝つことはできないのである。その意味でもナチス・ドイツの敗北は最初から予想されていたが、アメリカの金融資本や産業界がナチスの政権獲得後にドイツの軍備拡張に協力したのは、彼らがヒトラーの民族主義に共感したからなどでなはく、戦前、戦中、戦後に渡って“漁夫の利”を得るためだった。軍需産業への需要を増大させる以外に、ナチス・ドイツは彼らによってどう利用されたのか?
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    日本に対する本当の「脅威」とは?

     9月に入ってから安全保障関連法案をめぐる議論が、国会でもネット上でも白熱した。
    その間、法案を推進してきた安倍首相や賛成派、そして“雇われ”賛成派達の言説に、奇妙な“ねじれ”が生じた。

     法案に反対してデモを行っている人々(現場にいた人には一目瞭然だったが、一般市民が主体である)に対する中傷や「レッテル貼り」の不当性は言うまでもない。だが、安倍首相及び賛成派の言説に見られる“ねじれ”には、何か非常に不自然な、“取り繕った”ような印象を受ける。
     
     首相は、5月以来集団的自衛権行使の例として挙げていた、戦時のホルムズ海峡でのイランの機雷掃海を、9月14日の参院特別委員会で自ら否定した。(東京新聞記事より。http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015091502000120.html)
     イランの例を外したのは、「いま現在の国際情勢に照らせば、現実問題として発生することを具体的に想定しているものではない」からだという説明だが、この「いま現在の国際情勢」とは何を意味するのだろうか。ちょうどこの発言の直前に、イランをめぐる国際情勢は、確かに変わっている。
     9月10日に、7月から欧米によって進められてきたイランとの核協議の最終合意をめぐって米国議会上院で採決が行われ、野党の不承認決議案が否決され、履行が決定したのである(朝日新聞記事より http://www.asahi.com/articles/ASH9C4SFRH9CUHBI00V.html)。これでイランへの経済制裁が解除されることが、ほぼ確実となった。 
     アメリカを第一の「同盟国」と想定し、自衛隊のアメリカ軍への「後方支援」(そう呼ばれているが、対戦国にとっては前方と後方の厳密な区別などない)が、集団的自衛権行使の中身である。だからこそ、国際平和に向けた“アメリカの対イラン外交の勝利”が実現された途端、イランによる海上封鎖の可能性を否定せざるを得なかったのだろう。

     その後、賛成派の間でにわかに強調され始めたのが、中国脅威論である。戦争が起きる前から軍事力の行使を正当化するには、「仮想敵」が必要だからというわけだろう。軍人、軍隊、そして覇権国の論理は、いつでもそうしたものである。
     彼らは仮想敵として思い描いたあれこれの国が自分達と一戦も交えずに自壊した時、かえって茫然とすることがある。レーガンと父ブッシュの両政権時代にソ連からの優秀な亡命者としてアメリカの安全保障政策コンサルタントを務めたドミトリー・ミヘーエフは、同僚であった米国シンクタンクの職員達が、1991年にソ連が自ら解体した時に茫然自失したことを回想している(ミヘーエフによれば、そこにはアングロ・サクソンの支配層が信奉する旧約聖書的な最終戦争神話の影響もある)。
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    マスコミを信じる者は救われない: 世界システムの転換期と“普通人”の運命⑧

     日本では3.11以来、欧米ではジュリアン・アサンジやエドワード・スノーデンら内部告発者達による米国諜報機関の活動についての情報暴露以来、マスコミ(マスメディア)に対する“普通人”の信頼は下落したと言ってよい。

     それでも、いまだに日本の一部の人々は、最近話題になった百瀬尚樹の沖縄2紙及び幾つかの全国紙に関する発言に見られるように、マスコミの大衆への“政治的な”影響力に関して“神話的”ともいえる過大評価を続けている(マスコミの政治への影響力を信じているからこそ、それらの新聞を無くせば何かが変わる等という判断が生まれる)。しかし、それは1930年代から、せいぜい60年代初めまでの政治意識である。
     大衆消費社会という経済モデルは、19世紀末から20世紀前半という、資本主義システム形成過程の最後期になって確立されたに過ぎない。だがそれは、先進国の大多数の“普通人”に潜む人間的な欠点、強欲や浪費への志向や個人主義的な利己心を、確たるイデオロギーの支えなしでも正当化してしまう甘い罠だった。
     この経済モデルの働きアリである大衆は、自然破壊や発展途上国の貧困の原因を生んでいるのが資本主義システムそのものであることを認めようとはしなかった。前回まで何度か強調してきたが、このシステムは、大衆が作り上げたのではなく大衆を作り上げたのであり、“自由”ではなく浪費と強欲への志向を正当化するものであり、その事実だけでも大衆が尊重している“民主主義”と矛盾している。だが、大衆にはシステムの“正面”しか見えず、システムの管理者達にとって不都合な歴史的事実も、今世界で起きていることの裏面も、隠されている。
     
     このように書くと、“また陰謀説か”と即断して思考を停止してしまう読者もいるかもしれない。だが、それこそ最も典型的な“大衆”の意識なのである。
     システムにとって不都合な情報の多くは、正確に言えば“隠されている”というよりも、エドガー・アラン・ポーの古典的な探偵小説にあるように、“誰も探さないような場所”に置かれている。多くの重要な情報は検閲も受けずに公表すらされているが、周辺にある大量のノイズや情報自体に与えられた不適切な外見のせいで、大半の人々がそれらを見落としている。少なくとも政治や経済に影響を与えるほどには、大衆がそれに注目しないようになっている。
     ある情報がノイズなのか価値のある情報なのかということに関する“常識的”な見方も、ある書物なり映像に信憑性を与えるための外見、パッケージ、宣伝も、大衆消費社会ではすべて大手マスコミが規定している。それらに惑わされず、情報自体を吟味する能力は、残念ながら大衆にはない。大衆がマスコミを信用し、大量の情報の評価や選別機能をそれに委ねてきた最大の理由は、マスコミが彼らの強欲や享楽への志向という“人間的欠陥”を寛大に許し、地球全体から見ても各国社会の持続可能性という点から考えても余りに浪費的で利己的な現在のライフスタイルも、肯定してくれたからである。要するに、マスコミと大衆とは、システムが完全に袋小路に行きつくまで、その欠陥を見ようとしないことで暗黙のうちに合意してきたのだ。
     この経済モデルには、マスコミを通じて大衆の無意識をプログラム化し、不必要な浪費に満ちたライフスタイルを正当化させる“自己防衛システム”が埋め込まれていたのである。

     1960年代以降に生まれた日本人及びソ連を含む先進国の大衆の意識を形成してきたのは、どちらかと言えば新聞よりも映画やテレビのような視覚メディアであり、しかもジャンル的には報道よりも商業映画やバラエティー番組、テレビCMといった、ライフスタイルを一定の方向に規格化するものである。それらは、ナチのプロパガンダ映画と同様にイメージによって大衆意識に影響を与えたが、千年王国の夢を説いたナチのプロパガンダと違って、個人の生活から“意味”を次第に奪い、安楽や快楽以外については考えないようにさせるものだった。そのことは特に1970年代以降のテレビについて言える。政治思想を押しつけなくとも、大衆消費社会のライフスタイルが疑問視されない限り、人々がその“裏面”に気付かない限り、システムの管理者達は安泰だったのだ。
     先進国の大半の“普通人”は、内政を一種のショーとして、国際政治を“全体主義的な”悪党や“正義の”軍隊や“狂気の”テロ組織が活躍する勧善懲悪劇として認識していた。テレビで時折“アフリカの飢餓”を救う募金などのCMが流れることはあっても、その原因、つまり数十億人の人々に一日2ドル以下での貧困生活を強いているシステムの構造は、感傷を誘う視覚的イメージの裏に隠されていた。先進国の大衆は、政治も経済も“消費者”的に知覚するよう、意識と無意識とをプログラミングされ続けたのである。
     1980年代末に冷戦が終結し、90年代初めにソ連が消滅したことにより、アメリカはそれまで密かに行ってきた対外秘密工作をより洗練された形で、しかも以前より更に攻撃的・収奪的に行うようになった。だが、90年代の湾岸戦争やユーゴ内戦の際に先進国の人々に提供されたのは相も変わらず“勧善懲悪”的な図式であり、サダム・フセインと米国との以前の友好関係も全米民主化基金(NED)のユーゴ内乱への貢献も、マスコミによって報道されることはなかった。それどころか、80年代最後の年に、パナマ運河の所有権や新運河建設をめぐってジョージ・H・ブッシュ政権下のアメリカが、パナマを軍事的に「侵略」し多数の民間人犠牲者を出したという事実さえ、急速に忘れ去られた。

     実際、先進国の“豊かな生活”を保証していたシステムの“裏面”、つまりA.フールソフの言う“世界の舞台裏”、陰謀的諸構造の仕組みが“普通人”にさえ明らかになり始めたのは、ごく最近のことだ。特に2001年9月11日にアメリカで起きた“同時多発テロ”以降である。実はあの事件以降、“世界の舞台裏”に関しては国際的にも引用頻度の高い資料が次々に出版されている。
     2000年代前半、他でもないアメリカの非主流メディアによって、同国が1950年代から70年代にかけて徐々に作り上げてきたコーポレートクラシ―(大企業による政治支配)或いは“新帝国主義”とも呼ぶべき外交戦略の本質が暴露されていた。非主流とはいえ、それは2チャンネルやYouTubeのような怪しげな情報も流れる参加型ネットメデイアではなく、一見もっと保守的な出版界からだった。

     筆者がここで念頭に置いているのは第一に、ジョン・パーキンスによる2004年の著書『エコノミック・ヒットマン』である(原題は「エコノミック・ヒットマンの告白」。邦訳は東洋経済新聞社から2007年に出ている)。
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    プロフィール

    Shusei Nishi

    Author:Shusei Nishi
    私の専門は映画であり、映画と音楽には相違点も勿論ありますが、多くの共通点もあります。個人的には、映画は現在の形よりもっと音楽的であっていいのではないかと考えています。

    ここでは批評やレヴューというほどではなく、偏愛する音楽と映画、そして生活全般における“別の選択”について書いてゆきます。

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